皆さま、おはようございます。
雨が降ります。
とにかく毎日何かしらあるのが人間世界ですね。無いことをどんなに願ってもあることばかり、ましてや私の自分勝手な願いなんか叶っていたら悪夢のような日々になるはずです。それはSNS投稿を見ていればよくわかります。
来月の都知事選での投稿を見れば日本国民[有権者]ってそんなに政治に興味を持っていたのかな、ってそう思います。しかし残念ながらSNS投稿を見れば大方、候補者へのバッシングであります。
そして蓋を開けてみればあらあら投票率が低いのですね。投票をしない人は投稿しないで欲しいものだが。有権者の意思を表す場が投票することなのよ、そもそも。だから都政がよくなるはずがありません。現職だって最初は自民党都連から無視されていましたよね。ドンが幅を利かせていましたね、忘れましたか。
それが今やニコニコしてるから人間って不思議な生き物であります。
このように人間って【欲】によってどうにでもなるのが性分であります。さてさて都民[有権者]が未来を託す候補者は誰でしょうか。
さて本題に入ります。
皆さまは『ぞうさん』って歌は知っていますよね。まどみちおさんが作られました。
今日はこの話をします。実は童話を法話にして取り次ぐのは私が得意としているのですが、実際にはほとんど支持されません。「どうしてあんな話をしたんですか?」と後輩布教使からも言われる始末。それでも私はします。
先ず私はずっといじめられっ子だったからでもあります。身体は大きいし口数は多いし、親は住職[今は私が住職をしている]だし。いじめられる要素が満載なのです。私たちは見た目や自分を取り巻くものをとても気にしています。
だから嫌になってしまったり悲観するのです。
芸人さんは逆にそれを逆手にとって人気者になったりしていますから一概には本来悲観するべきものではないのかも知れません。
ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね
私たちは何気なく歌っていますが、作者はこの初めの一節は子象をからかっている言葉なんだそうです。実は象ほど鼻が長い動物はいませんから、子僧に向かって「お鼻が長いのね」と言うのは、「あなたは他の動物より鼻が長くて大変ですね」という意味を含んでいることになります。ところが子象はからかわれているなんて思わずに、むしろ、かねてから自分の鼻が長いことを誇りに思っていたかのように、
そうよ 母さんも長いのよ
と答えます。
二番の歌詞には、
ぞうさん ぞうさん 誰が好きなの
あのね 母さんが好きなのよ
お父さん[パパさん]には申し訳ないですが、幼い子どもにとって母親[見送った今でも私はそうです]とは、その子の世界のすべてと言っても決して言い過ぎではないくらいの存在なのです。その大好きなお母さんと同じ長い鼻を自分も持っている。それがただ嬉しくて嬉しくてたまらないんですね。
他の動物に比べてなんかどうでもいいんです。
私たちはどうでしょうか。
子象をからかった人のようにすぐ他人と自分を比べたがります。他人と自分を比べて自分の方が偉いとか、逆にダメなような悲観を感じたりしてしまったり、誰から何を言われたわけでもないのに、勝手に一喜一憂していませんか。
子象みたいにからかわれるのが嫌で、人のマネばかりしている。きっと自分が自分として生きることに一生懸命ではないのかもしれません。
そんな私たち大人と、違い子どもたちはいつだって、一生懸命です。自我が芽生え始めた子供たちは、一生懸命であればあるほど、違いが際立ちます。それでも子どもたちは、他の子と比べて一喜一憂なんかしませんよ。
逆に一人ひとりが違っているからこそ、お互いを補いあえたり助けあったりできることを積極的に学んでいくのです。
このように仏の子を育てると同時に、その仏の子の姿を見て教えられる毎日です。朝から元気に自らが私に「おはようございます」、「こんにちは」なんて素晴らしいでしょうか。
大人は下をうつむき会釈しかできない、蚊の鳴くような弱々しい声で挨拶をしていませんか。
それでは頑張ろうなんて気持ちになんかなりゃしませんよ。ゆとり世代と言われている子どもたち、実は私たち大人よりもずっと社会とのコミュニケーションを学んでいるんじゃないでしょうか。知らない人とは話さないとか、つまんないよ。知らなきゃ知ればいいじゃんか。
【縁】があればこそ顔を合わせることができたんだもの。短い縁かも知れないけど、その人との出会いはお浄土まで一緒なんだよ。阿弥陀さまにお遇いするってそういうことだと思う。
『ぞうさん』の歌が私たちに何を語りかけているのか、実は私たちが無駄にしているものそのものに目覚めてくれよとの阿弥陀さまからの語りかけではないかと私は思います。
だから私はこれからも童話を題材に法話をしていきます。子どもは素直だから。
大人も素直になりたいですよね。
南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ。
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