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執筆者の写真超法寺の住職

阿弥陀さまが選び取られた【行】

皆さま、こんにちは。

今年も早、7月を迎えました。

夏です、また暑い夏がやってきました。

盂蘭盆の季節ですよ。貪りから離れられない私が参るべき世界【地獄】を考えるべき大切な行事であります。他人事のように思い日々の生活の中に地獄[自業苦]をこしらえながら生きているお互いであります。そんな生き方を正しいなどと思い上がり仏法聴聞も怠り、南無阿弥陀仏のお念仏をも聞くことなく生きている私たちのために【真実の法】があるのです。


先日ホームページに質問がありました。「法然聖人も五正行を言われていますか?」

皆さまはどう思われますか。

よく皆さまがおっしゃられること「住職、浄土真宗は修行がないからありがたいですね」。

いやはや驚きますね。

やはり仏法を聞かれない人が言われる典型です。だって親鸞聖人も法然聖人もそのようなことは言われていませんから。

きっと自力を捨てて他力本願に帰するを誤解されているのでしょうか。せっかくの素晴らしい[法]を私たちにお届けくださっているのに、勘違いして受け止めてほしくはありません。


だからこそ念仏者はどのように生きればいいのかという問いが起こるのではないでしょうか。

私など口に煩悩具足の凡夫という中で愚痴を垂れ流すという愚行をしてしまう悪い癖があります。お恥ずかしいですが良き人がご指摘してくださいます。いつも有難うございます。

何を聞いて生きているのだろうか。


阿弥陀さまは、なぜ念仏一行を選んでくだされたかといいますと、お念仏は【易行】(いぎょう)でると同時に、最も勝れた(すぐれた)行であるからだと言われています。法然聖人はこの選ぶということを【選択】(せんじゃく)という言葉で表されています。【選択本願】、これは阿弥陀さまが命をかけた願いということであります。その命をかけた願いを起こされる時、阿弥陀さまは【称名念仏を真実の行】として選び定めてくださったのです。


つまり、お念仏は私が選んで称える行とは違い、阿弥陀さまの選びに従っているということです。ですからお念仏をするということは、阿弥陀さまの願いにかなった生き方をしていることであります。

私たちは戒律も守れず、男性は250、女性は350の戒律を守らねばならないと言われています。それなのに守るどころか、くだらないことばかり考えたり、愚痴ばかり、他人の悪口ばかり。どれもこれも仏さまのお心にかなったような生き方にはなっていません。仏さまに背きながらの生き方となっているのです。

自分を褒める人も、他人を褒めたりはしないで「ま、私と同じくらいだな」程度ではないでしょうか。他人の欠点ばかり探してはいませんか。


七高僧のお一人、曇鸞大師は、

 無顧(むこ)の悪人は、他の勝徳を破す

と言われています。

これは「自分を顧みて反省することのない悪人に限って、他人の勝れた(すぐれた)徳を破る」ということです。他人の勝れた徳を見たら、それを讃えるどころか、わずかな欠点でも探し出して、針小棒大[しんしょうぼうだい]に言いふらし、人を落としいれようとしている。こんな悪い環境のなかで仏道修行をすることなど至難であると言われているのです。


そこで阿弥陀さまは、どんな悪い環境に生きていようとも、どんな悪行、悪業を重ねたものであっても、また智者、愚者、出家者、在家であれ、全く分け隔てなく歩むことのできる南無阿弥陀仏という行を選び取ってくださったのです。阿弥陀さまが完成されている智慧の徳も、慈悲の徳も、すべての功徳を【南無阿弥陀仏】に込めて私たちに与えてくださったのです。

それを法然聖人は【選択本願の念仏】と言われたのです。


このように誰もが歩める易行(いぎょう)であっても、最も勝れた価値のある行として、お念仏を選び取って私たち一人ひとりに、【この私の本願を疑いなく受けいれ、必ず浄土へ生まれることができると思って、称名[南無阿弥陀仏と声に称える]しながら生きなさい】と、願いを込めて喚びかけていてくださっているのです。頼もしいですね。

悲しい時は悲しいままに、苦しい時は苦しいままに、寂しい時は寂しいままに、嬉しいときも嬉しいままに、腹が立っていたら腹が立っているままに、そのままで【南無阿弥陀仏】と声にお称えさせていただければいいのです。


だから親鸞聖人も『御消息』の中に、お念仏は「行住座卧(ぎょうじゅうざが)を簡(えら)ばず、時処諸縁(じしょしょえん)をきらわず」称えなさいと書かれています。


歩いている時は歩いているままに、座っている時は座っているままに、寝たときは寝たままに、行住座臥(ぎょうじゅうざが)を選びません。いつでもどこでも称えられる行として、お念仏を選び取ってくださいました。

そこには仏さまのお徳がすべてこもっています。


このお念仏の中にこもっている意味を説きあらわしますと、『大無量寿経』上下二巻となり、さらに『観無量寿経』、『阿弥陀経』となり、八万四千の法門といわれる経典となって展開していきます。

親鸞聖人の教えも法然聖人の教えもすべてこの【南無阿弥陀仏】の中味を、私たちに知らせようとすることであります。その聞いた教えが、私一人ひとりの身についていくのは、毎日の生活の中であり南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことだと思うのです。


愚痴の出る日暮らしですが、南無阿弥陀仏が[灯]となり、真実に目覚めてくれよとはたらいていてくださるのでしょうね。お恥ずかしいことでありますが自分の殻に閉じこもるようなブログとならないように努めてまいりますのでこれからもよろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ


◎超法寺では、初盆、盆参りのご依頼を受け付けていますのでご用命ください。尚、7月、8月の13〜16日は大変混み合いますため時間指定はご遠慮くださいませ。よろしくお願いします。

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