浄土真宗は、自分では成し遂げられない【さとり】を阿弥陀如来のおはたらきにおまかせして、阿弥陀さまの誓願不思議に助けていただく教えであります。
決して何もしないでいい教えではありません。
救いに条件はありませんが、【疑う心】はいただけません。とかく人間は自分は正しい、間違えていないと勘違いして生きようとします。
また「死ねば仏」などという誤った言葉に安心してしまうものです。
私たち人間がする功徳など全部【欲】で真実なものは何一つございませんから。
【生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける】
なかなか人間はおまかせができません。
何か、自分でやらないと気がすみません。
阿弥陀さまが全部仕上げてくださっているにも関わらず、人間とはその阿弥陀さまに背を向けて生きようとする。だから苦しくなるのです。
【お念仏が優れている】なぜ?
【本願他力は優れている】なぜか?
こうしたら助けてやる、ああしたら助けてやる、立派な厳しい行をしたら助けてやるというようなそのようなものとは違って、
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逆に、教えから外れ破れていった者を阿弥陀は決して見捨てることができないという、そういう【本願力】こそ偉大な力なのです。
とても私たちのする功徳など阿弥陀如来の大慈悲心とは比べものにはなりません。
自ら反省する能力すらないような者までも、阿弥陀如来の大慈悲心は救う力を持っておられる。
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そういう救いの法、南無阿弥陀仏を聞く。
そこにおいて【機の深心】が成り立ちます。
【機の深心】
絶対に助からない私、助かりようのない私、
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「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して出離の縁あることなしと信ず」[註釈版217]
過去も未来も全部ダメだと書かれています。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」
この罪悪は、良心による罪悪感ではありません。
阿弥陀如来の法に遇って初めて生きてきた私ですから、悪人正機と言われるのです。
これは私が反省して悪いと気がついた私のことではなく、阿弥陀如来に見抜かれた私のことであります。
【阿弥陀如来に遇わない限り、浄土真宗でいう悪人は成り立たない】
阿弥陀如来に、遇う前の「悪人」と言っているのは自分が反省している悪人なので、残念ながらレベルが違うのです。
【機の深心】は、絶対助からない機(私)
【法の深心】は、必ず助けるに間違いない法
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助からないと必ず助けるが一つ、
必ず堕ちると必ず助けるが一つ、
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信心
残念ながら、自分で悟りに至ろうとする聖道門には機の深心はないのです。
聖道門(しょうどうもん)の悟りと、
浄土真宗の救いの違い、
石に例えれば、沈む石が軽石に変わるのが聖道門の道です。
対して浄土真宗の救いは、重い石、沈む石のまま、つまり煩悩具足のそのまま、絶対に沈むことができない身になる。
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阿弥陀如来のご本願の【船】に乗せられる。
【生死の苦海ほとりなし、ひさしくしづめるわれらをは、弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならずわたしける」
沈む私が沈まない身になる。
南無阿弥陀仏の名号の船をよりどころとして生きる。
私は何にも変わらない。
本質的に人間であることは変わらないから、【煩悩】から離れられない生き方です。
沈まない身にしてくださっている南無阿弥陀仏の船に手助けすべきものを、協力すべきものを逆に私たちは、助けてくださっている船に【抵抗】するのです。
石を船に乗せると、石は船を沈めようとしますよね、つまり抵抗するのです。
その抵抗するものを内側に持つがゆえに、余計に船自身にかかる【浮力】がわいてくるのです。
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これこそが【念仏申す人生】なのです。
❌浄土真宗のみ教えを勘違いして聞いてしまうと、「なぁ〜に、悪いことをしたって助かるんだからなぁ」となってしまいます。
聞き損なってはいけませんよ。
どんな悪いことをしても助かるんじゃなくて、【どんなに罪深くても、救わずにはおかない〈本願〉を聞くのです】
「薬あればとて、、、」
解毒剤があるからと言って毒を飲むのは、毒とわかって飲むわけでしょう。それは救いとつながっていません。
阿弥陀如来の本願は、煩悩の毒のまわっている人間がめあて。
阿弥陀如来は、毒がまわっている人間を放っておくことができないのです。
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如来の大悲
他力真実は、無条件で救う力を持っているから優れているのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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