皆さま、こんにちは。
今日も暑いですね。甲子園を目指す高校球児達は一校、一校と夢を叶えています。その反面、夢破れてしまい涙した球児もいることでしょう。我が母校も6年ぶりの夢を目指したがコールド負けを喫してしまいました。記憶にあるのは、西村、松岡のバッテリーで16年ぶりの復活優勝しベスト16まで勝ち進んだ翌年に北嵯峨相手にコールド負けをしたあの試合が思い出されます。私はまだ京都にいて西京極まで観戦をしに行っていました。青春ですね。
野球好きな私は甲子園で母校応援するのが大好きです。選抜で悲願の初優勝をした一回戦では、今は亡き父の母校も出場していて(初出場)、あの場に父も私もいたのでした。
しかしながら顔を合わすことはありませんでした。父もまさか母校が甲子園に出るとは思わなかっただろうね。広島県は山間部から甲子園に出ることは無かったからね。父も何気に野球は好きな人だったから、生前にはよくマリンスタジアムまで観戦しに行ったなぁ。
もちろん亡き母とも何度も観戦しました、マリンスタジアムでね。とても嬉しいひと時でした。お母さんの嬉しそうな笑顔が忘れられませんね。
『徒然草』58段に、
人と生まれたらんしるしには、いかにもして世をのがれんとこそ、あらまほしけれ。
ひとへに貪る(むさぼる)事をつとめて、菩提におもむかざらんは、万(よろず)の畜類(ちくるい)に変わる所あるまじくや。
とあります。
人と畜類(動物等)との違いは、【菩提におもむく心】を持つかどうかにあると言われています。貪りのみに生きるを愚かと言い、現世の楽しみにのみくくられないことが望ましいことだと言っています。
※菩提🟰さとり、さとりに至る道、極楽往生
SNSを見ていますと、愛犬や愛猫が亡くなると「天国へ行った」と必ずと言って書かれています。人でさえめったに行く世界ではないというのに、どうして動物が天国へ行くと言えるのでしょうか。ましてや天国は神の国ですから仏教を信仰している方が行く世界ではありません。
これも知らない人があまりに多い。
良寛さんは、
山かげの岩間をつたふ若水(わかみず)の、かすかにわれはすみわたるかも
と、詠まれています。
これは、人はいつの日でも、涼やかな思いで日々を送りたいと願うのですが、現実の明け暮れは、生活の利害得失(りがいとくしつ)、身辺(しんぺん)の雑事のみに追われて、ただあくせくと時を過ごしてしまいがちです。
そう言われています。
また兼好法師は『徒然草』に、
名利につかはれて、閑かなる(しず)暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
と言われています。
これは名誉を欲し、利欲に引きづられて心静かな時間を持つゆとりもないままに、その一生を苦しむことは、極めて愚かなことである。
このように人は、自己の内奥(ないおう)に眼を向けることに躊躇(ちゅうちょ)します。
厳しく自己を見つめることは、自己の生の根源に関わることでもあるので、自らを見る眼を塞いでしまのです。
ですからなかなか仏縁には遇い難いと言われます。どうしても最後は自分たちの常識や偏見を優先してしまうものです。
まかせよ、と喚ばれているというのに仏さまでは一番頼りにならない自己を頼りにしてしまうのですね。
妙好人のおひとり、浅原才市さんは、
阿弥陀さまはいらっしゃる、どこに。
「わたしゃ阿弥陀さん見たことないが、声でよろこぶ南無阿弥陀仏」と言われています。
阿弥陀さまは煩悩具足の凡夫である私たち人間の眼では見ることができないが、声や言葉の中にその存在を現しておられます。
南無阿弥陀仏と声に称えますと、そこに私と阿弥陀さまは一つになります。
一対ではなく一体となるのですよ。
心が伝わらずに称えるものならばそれは呪文でしょう。中身がわからなければ心に訴えることはないでしょう。
私たちの称名念仏は【聞其名号】、つまり「聞く」ということが不可欠なのです。
称えて受け取るのです。受け取らねばこの口に称えることはないのです。聞くことによって我が心に受け止めていくのです。
この南無阿弥陀仏の中には修行もできない、善行も、悟りも開くことができない、悪いことと思ってもなかなか慎むことができない。そんな私たち人間、凡夫のための仏の智慧が含まれてあります。南無阿弥陀仏を称えながら生きていますと、この世の真実が明らかになるようになります。この世の真実とは、我々の愚かさについての真実です。そして最大の愚かさとは阿弥陀さまの存在を知らない愚かさです。
少し難しいことだと思いますが、覚えなくてもいいですよ。
愚かさを破る智慧のはたらき、それはお経から始まりました。お経の中に智慧が示されています。でも浄土三部経でなければ他力本願の世界を知ることは難しいでしょう。
阿弥陀さまのもつ慈悲心。
この根源を本願と言います。
私たち人間凡夫は、この根源の本願に支えられて生を全うします。
九條武子さまは、
いだかれてありとも知らず、おろかにもわれ反抗す、大いなるみ手に。
と言われています。
この本願を九條武子さまは、「大いなるみ手
」と表現されておられます。
何も分からないこの私たちのために仕上げられてある阿弥陀さまの究極の願いが南無阿弥陀仏のお声であります。その声を届けてくださったのは、他ならぬわがご先祖さま、お父さんでありお母さんではなかったのでしょうか。
大切にしてください。
南無阿弥陀仏
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