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執筆者の写真超法寺の住職

自然法爾の世界

皆さま、こんばんは。

今日も一日激暑でしたね。

立ちくらみがするほどの暑さでした。

まだ関東は梅雨明けしていないのですから開けたらどうなってしまうのか今から恐怖です。


今日はおかげさまで日野市でお参りのご縁をいただきました。とはいえ悲しみの場でありましたから、なかなか辛い気持ちになりました。

この度は浄土真宗のみ教え【他力本願】のお心でもある【自然法爾】(じねんほうに)についてご紹介します。

つい、じねんぼうにと言ってしまうのですが、ほうにが正しいのです。

そして自然もしぜんではなく、じねんと読みます。元々は自然を(じねん)と読んでいたのですが、いつしか(しぜん)、ネイチャーと訳すようになり自然の意味合いが仏教から離れてしまったようです。


自然(じねん)と言うのは今や浄土真宗と自然薯くらいになってしまいましたかねえ。長生きしたい方は自然薯を食べる習慣を持った方がいいと言われますよ。親鸞聖人や蓮如上人は長生きでしたが、研究者は普段から自然薯を食していたのが良かったと思いますと、仰っています。懐が寒くはない方は是非お試しあれ。


さて本題に戻りますが、【自然法爾】とは、【自力を捨てて他力に帰する】ことを言います。ありのままに生きることを言います。「そんなこと当たり前じゃないか」と言われるかもしれませんが、ありのままに生きておられますか。[老い]のまま、[病]のまま、[死]のまま、生きていますか。生まれたら人は必ず死ぬのです。例外なく、漏れなくであります。どんなに悲しんでも、抵抗しても、それでも死んでいかねばならないのです。「そんなことわかっているよ」、本当ですか。白髪染、隠ししていませんか?サプリメントを愛用していませんか?お医者さんに聞いたらサプリメントを愛用すると最後は寝たきりになるそうです。

「なごりおしくおもへども、娑婆の縁尽きて力なくしておはるとき、かの土へはまいるべきなり」と『歎異抄』には言われています。


さて、[死]んだら、どこへ行きますか?

自力で行くなら地獄ですよ。

他力で行くなら浄土ですよ。

天国じゃありませんよ。

阿弥陀如来にお願いするんじゃないですよ。

阿弥陀如来のお願いを受け入れていくのです。

まかせるとも言います。


[自然法爾]とは、親鸞聖人86歳の12月14日に書かれた「自然法爾の事」のお手紙に、【自然の前では自力は無効】と書いています。

おのずとそうなる、なるようになるということです。これからの時期は川や海で泳ぐ機会が多くなり、それに伴い事故も増えます。学習していただきたいと常々思っていますが、それでも今年は既に亡くなられていますよね。

海では人の体は浮くようになっているのです。

それなのにどうして溺れてしまうのでしょうか。それは溺れたくないともがいてしまうからです。身体の力を抜いて身を任せたら、あら不思議必ず体は浮くのです。人間は[煩悩]がありますから「死にたくない」という欲により、身を任せられないのです。自力から離れられないのです。こういうことを言うのです。


頭で理解しようとしているうちはダメです。身心で阿弥陀如来の誓い、願いを受け止めておまかせしていかねば他力本願の救いには遇えないのです。私たちは生まれてきたから死ぬのです。ではなぜ生まれてきたのか。なぜ今生きているのでしょうか。そして私の縁が尽きたならば必ず命を終えていかねばならないのです。

私の生きていることは私の使命を果たしているのだと私は受け止めています。きっと長くても約20年で集大成を果たしていくのでしょう。

もっと短いのかも知れませんね。それでも、もう私がお浄土へ往生させていただくことは間違いありません。だって南無阿弥陀仏が愚痴の口から常に出てくださいますから。これが証拠であります。


いただいていない人には南無阿弥陀仏は称えられません。阿弥陀如来のお誓いのままに私がなれたら、おのずとそうなるのです。

「我にまかせよ、我が名を称えよ、必ず浄土に生まれさせて仏にならしめん」というのが阿弥陀如来の願いであります。その願いのままに私たちが身を任せらられるようになれば、おのずとそうなるのです。信じられないから、任せられないから南無阿弥陀仏が称えられず、悲しみを乗り越えられずにいます。

疑わずにまかせよ、救うが、阿弥陀如来のお誓いであります。私の信心など阿弥陀さまは当てにしてはおられませんよ。阿弥陀さまの他力のおはたらきによって疑いの私を信じさせ、称えさせ救うはたらきであります。


親鸞聖人は、法のもつ自然のはたらきによってさとりの世界に到達するのだと言われます。それが自然であり、法爾であると表現されています。阿弥陀さまの仰る通りに南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことで、人生に溺れることなく倒れることもなく、私が私のまま最高の人生を歩ませていただくのであります。

悲しいことではありますが、【倶会一処】(くえいっしょ)、お浄土でまたお遇いさせていただくまで私の人生を仏さまと一緒に生きていきましょう。そのお一人が亡き人であります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

おやすみなさい。

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