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執筆者の写真超法寺の住職

自分葬のススメ

皆さま、おはようございます。

今朝も良いお天気に恵まれました。

今日は瑞穂町で葬儀へ参らせていただきます、

悲しみの場をいかに私なりに寄り添えるかを考えています。今日は繰り上げての四十九日も勤めさせていただきます。

初めての経験ですが、最近は葬儀も一日葬だったり火葬式と簡素化され、その上、その後は忌日や年回法要は一切やらない方が増えてきました。もちろんそうなればお盆参りやお彼岸参りもされませんから、僧侶派遣業者はお困りになられていて私たち僧侶に働きかけをされますが、もちろん私たち僧侶もご法事が無くなることは死活問題にもなりかねません。


だからこそ、ただの儀式にならないように鋭意工夫が必要となっているのでしょう。

そのような中、実は葬儀にも変化が出ているのを皆さまはご存知でしょうか。

「終活」が言われて久しいですか、既にアメリカでは、葬儀は[生前の段階でオーダーメイドの契約をして業者が執行する]ものが主流となっているのだそうです。


ということは、この流れは日本でもそう遠くないうちにその流れとなるのでしょう。

家族葬もつい数年前では一部でしたが、今や大手でも家族葬ホール化に舵を切っていますので、業者間で差がなくなりました。

そもそも葬儀社は個人経営が大多数で許認可もないため、やりたいと思えば誰でもやれるのです。ですから大手葬祭業社でスキルを得て独立される方は多いので大変なようです。


私は以前から人生最後の大イベントは、亡くなられた方が歩んでこられた人生の集大成をいかにお世話になった方や親戚縁者へ見せていくのか、結婚披露みたいなものがどうしてないのか、ずっと不思議に思っています。


確かに葬儀の簡素化でお通夜をやらないから、仕事のお父さんが子どもたちにはわからなかったり、お父さん、お母さんが音楽が好きだったらBGMで流したり、趣味のものがあればそれを会場内で表現したり、生前のビデオ映像を流したり、もっと華やかな儀式にどうしてしないのか不思議に思います。

確かに故人の死は悲しいものです。

でも浄土真宗のみ教えは、ただ悲しいことではなく、【往生】されていく素晴らしいことですので、喜びもあっていいのではないかな。

ましてや生前の故人さまの人生の歩み、笑顔、優しさ、喜びを生前にご縁のあった方々に見てもらう、知ってもらう、昔を懐かしむ、そんな時間を共有してもいいと思う。


時間的に難しいというかも知れませんが、結婚披露でやれるのだから鋭意工夫すれば業者もご遺族も、そしてお坊さんもウィン、ウィンになれるはずです。ただの儀式になることなく、特に【仏に成る】教えを仰ぐ素晴らしい宗派の浄土真宗だからこそ胸を張って臨めることだと思う。【仏教讃歌】が会場に流れる雰囲気はきっと良いはず。

私が学生時分に大阪八尾市で葬儀へ参った際、会場では仏教讃歌【み仏に抱かれて】が流れ、出棺時には会場の方々が皆で唱歌する姿に感動して涙が出てきたのを思い出します。


この親鸞聖人がお伝えくだされた素晴らしいみ教えを勇気を持って葬儀の概念を打破していくことが我々浄土真宗には求められているのではないだろうか。少子高齢化の波の今、只の儀式に成り下がってしまったことで葬儀が心温まるものではなくなりました。ただ悲しみを共有するだけで、残されていくご遺族も仏の道を歩んでいくことがなかなか共有されずにいます。だからこそ、【倶会一処】という素晴らしいものを葬儀の場で表現していくことで、新たな葬儀が行えるはずです。


【自分葬】という新しい葬儀の形を私は提言したい。

死に行く私の最後の大イベントなのだし、私自身は独り者だからこそ自分の最後や人生の歩みを皆に知ってもらいたいと考えますよ。


【葬儀の個性化】

個人個人の手元に葬儀を取り戻せ!

これこそ本来の欲求ではないだろうか。

十人の人に十通りの人生があるのだから、そこには十通りの葬儀があるべきです。

十通りの別れがあり、十通りの追悼の心があるというのに、皆カタログで決まった儀式としての葬儀をするパターンであるのがむしろ今風じゃないよ。


葬儀社主体でご遺族は葬儀社の都合にただの消費者になりかねない今、この葬儀は誰のためなのか、何のためにするのだろうかをもう一度考えてみませんか。

「散骨」が流行っています。これも今風でしょうが葬儀というイベントが事前に考えられ、死を待つだけの時間ではなく、自らの人生の締めくくりをどうするかを生前に考えるなら楽しい人生となりませんか。家族が子どもや孫、親しい友人まで参加して葬儀を考えるなんて素晴らしいと思います。


私は人生を歩んできた故人を単なる利潤追求のもので済ませてしまったら寂しい。

確かに結婚披露宴すらそうなりつつありますが、ビデオレターや手紙披露はその場にい人の心に響くものがあるはずです。


ただの悲しみの場に終わらせずに、【死】について【生】の素晴らしさと【死】の意味を知る、そんなことを見事に表現できる葬儀が増えてくださることを私は願います。


これはさまざまな思いがあるでしょうが、私は両親遺影をどれにするかをきょうだいで語り合えただけでも嬉しかったし、生前の両親について、両親のきょうだい、子ども、孫で共有できたことは本当に嬉しかったです。

ただの儀式としない心温まる世界は浄土真宗のみ教えこそ、私には感じられるのです。



み仏に抱かれて、君ゆきぬたまの家、美しきみ仏となりましし、尊さよ


たまの家とは、お浄土のことです。


南無阿弥陀仏

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