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聞く気の無い人生は虚しい

皆さま、おはようございます。

今日も朝から快晴であります。

有り難いですね。

気持ちも晴れやかに一日を過ごしていきます。

小学生の皆さまは集団登校をされています。

あれだけ事故に見舞われてもやはりやめないのですね。

皆さま、月曜日の朝だからでしょうか、下を俯き暗い表情で歩いていました。

「おはようございます」の声にも無反応。


何か寂しい気持ちになりました。

【勝手に自分で学ぶしか、しょうがない】

[大阿闍梨 酒井雄哉師]


人から言われてするものはホンマもんじゃない。感謝も挨拶も心の反映にて出るもので親や先生から促されてするものはただの形。

生きていく中では教えられるものも多いですが、察して、感じて受け入れていくものが実は多いように私は思います。


人間として男として、大人としてどうあるかを私の場合は、学生時代に諸先輩から学ばせていただきました。

とても素晴らしいことです。

また仏法聴聞の有り難さは亡き母から。


葬儀や法事の際、お寺さんのお話を聞くことは正直しんどい。話す側の私も特に初めてお参りする場所では苦慮します。

おざなりの話では一方通行になりやすいし、何か独り言を言っているような寂しさを感じたりします。


大阪の安方先生は、「英語が苦手な人は、脳に英語を聞くミゾがないんだ。だからすぐ眠たくなるんだよ。仏法を聞いて眠たくなる人は、まだ仏法を聞くミゾが無いから仕方がないんだ。だからミゾができるまで聞かなきゃいけないよ。」

そのような意味のことをおっしゃっています。


これもそれも自らが生きていく中で察して、感じて学んでいくのでしょう。

意味のないことはありませんし、関係ないこともありません。特に葬儀や仏事のご縁は亡き人のためだと思いがちですが、実は亡き人の側から私に仏法を聞いてくれ、南無阿弥陀仏を聞いておいてくれ、南無阿弥陀仏を私だと思って称えてくれよと受け止めたいものです。


熊本県の原口針水和上は、

【われ称え、われ聞くなれど南無阿弥陀、連れてゆくぞの親のよび声】と申されています。


是非、まだ仏法を聞いて眠たくなる人、興味が持てない人には繰り返し読んで学んでいただきたいですね。

私も夢に見るほど読み返しました。

読めば読むほど有り難いものです。


さあ、今日も一日、南無阿弥陀仏を灯火にして生きていきましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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