⑨[常行大悲の益](じょうぎょうだいひのやく)
阿弥陀如来の大悲を人に伝えることができる。
※大悲とは、衆生〈人〉の苦を取り除くはたらき
中国の道綽禅師の『安楽集』下巻に引用された『大悲経』に、阿弥陀仏の大悲を人々に伝え、念仏を勧めるものは「大悲を行ずる人」(『教行信証』信巻)と讃えられていることからとられた。
それは、阿弥陀如来の大悲が、念仏者を拠点として、煩悩の大地に行ぜられていることを意味していた。浄土真宗における伝道の原点を顕しています。
⓾[入正定聚の益](にゅうしょうじょうじゅのやく)
やがて仏になると定まった正定聚の位に入る。
従来は彼土の益と考えられていた正定聚を、親鸞聖人が現生の利益であると領解されたのには、二つの理由が考えられます。
一つは、信心の行者は、現生において【摂取不捨】の利益に預かっているからである。
『親鸞聖人御消息』第一条に、
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」(『註釈版聖典』)と言われたのがそれである。
摂取不捨の利益に預かれば、【不退転】の位につけしめられる。それは、必ず往生成仏することに決定している正定聚の位を意味していたからであります。
第二は、如来回向の信心は凡心ではなく、不可思議の仏智でありますから、信心の行者は【無漏智】をそなえた正定聚の機と言われるのであります。
言い換えれば、凡夫でありながら聖者の徳を持つということです。
『入出二門偈』に、「煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。この人は、すなはち【凡数の摂】にあらず、これは人中の【分陀利華】なり」(『註釈版聖典』)
と言われているように、信心の行者は、凡夫の数に入らない。すなわち、聖者の部類に属すると言われるのであります。
こうして信心の行者は、煩悩具足の凡夫の身でありながら、いただいている信心の徳義から言えば、聖者の仲間に入れしめられているから正定聚の機というのであります。
こうして信心の行者は、すでに【智慧】と【慈悲】を中心とした阿弥陀如来の秩序を真実と受け入れ、阿弥陀如来の秩序下におかれているものということができる。
それを阿弥陀如来に摂取されているともいい、正定聚に入れしめられているとも言われたのです。
◉すべては、私自身が阿弥陀如来のご本願を受け入れて、南無阿弥陀仏と声に称える私となることが大切であります。
❌心の中でお念仏申すは有り得ません。
それはどうしてかは、お寺でお聴聞することで知らされます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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