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執筆者の写真超法寺の住職

白骨の御文章(口語訳)のお心

更新日:7月19日

皆さま、おはようございます。

今朝は雲に覆われながらも蒸し暑い朝です。

今日は栃木県宇都宮市の先までお参りへ行きます。久しぶりの遠路法務であります。ここしばらく危機的な状況ですので、このようなご縁も大切にせねばなりません。お喚び声でありますね。昨今ではまた新型コロナが蔓延を始めているようなのでマスクと濃厚接触には十分気をつける必要があるようです。

確かに健康な人にはあまり重い害は及ぼさないとは言われますが油断大敵であります。

特に私のように持病を抱えている人はくれぐれも気をつけていただきたくお見舞い申しあげます。


さて今朝はお通夜の時によく拝読されます蓮如上人の「御文章」(白骨の章)です。昔から浄土真宗ではお経の後に拝読されてきました。

ただ皆さまには意味がわからないとのご指摘もありますので口語訳をご紹介します。


そもそも人の世の浮草のような様相(すがた)をよく観ていると、何といっても果敢無い(はかない)ものは、この世の生から死までの幻のような一生であります。

だから、これまで、一万年も生きた人が居るということを聞いたことがありません。

まことに人生は、あっという間に過ぎ去ってしまいます。このような時代に、一体誰が百年の生命(いのち)を保つことが出来るのでしょうか。他人が(ひと)先に死ぬのでしょうか。

死の訪れは(おとずれ)、今日かも知れず、明日とも知れません。

遅れて死ぬ人、さきだつ人、いずれにしても死ぬ人の数は草木の根元のしずく、業の先端(さき)に宿る露よりも多いと言われています。

だから私たちは、朝は元気でいたのに、その日の夕方には死んで白骨となってしまっても、決して不思議では無い身の上なのです。


ひとたび無常(死)の風が吹いて来れば、その場で双方(ふたつ)の眼は閉じ、呼吸(いき)が永遠に途絶えてしまったならば、血色の良かった顔も変わり果て、桃李(もも)の花のように美しかった姿も消え失せる時は、父母(ぶも)兄弟妻子親戚など集まってどれほど嘆き悲しんでも、さらさらその甲斐などあろうはずがありません。泣いてばかりもしておられないという訳で、野辺の送りをして夜中の煙としてしまえば、ただ、白骨だけしか残りません。

悲しいと言っても、こんなに悲しいことはありません。だから、人の世ははかなく老少不定(ろうしょうふじょう)の境界(きょうがい)なのですから、誰でも、どうぞ一時(いっとき)も早く、後生の一大事(死後どうなるかという大問題。み仏の国、お浄土にうまれさせていただくこと)を心にかけて、阿弥陀如来に深く帰依し、念仏を称えながらの生活を送りください。

ああ、勿体なや、勿体なや。


(註)今から五百年余り前、本願寺第八世、蓮如上人が、ご門徒に対して認められた(したた)二百数十通の書簡の中の一つです。


こういうような意味合いがあり、大切な人の死を通しながら、私の生きる道をしっかりと訪ねながらという願いをお聞かせいただくのでしょう。どんなに辛くても生きているということは、必ず人生を終えていかねばなりません。だからと言って、死んだだけでは迷いの命から逃れていくことはできないのです。


是非、何度も拝読してお味わいしていただきたいと念じます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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