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執筆者の写真超法寺の住職

癒されたい

皆さま、こんにちは。春らしい日差しが暖かいですね。ようやく桜が綺麗に見られるようで心が癒されます。有難いですね。

さて今日は入間市でお参りしました。

初めての斎場で迷ってしまいました。GoogleマップもYahoo!マップも案内できずにハラハラしちゃいましたが、おかげさまで無事に遅れずに着きました。やはり初めての場所は早めに行かないと何があるかわかりません。

聞けば2年前にできたそう。

一応、地元の斎場は巡ったので見落としたかと思いましたよ。家族葬が流行りましたので家族葬ホールができた感じでしょう。


火葬場は広域瑞穂斎場でしたが、いつもは綺麗に見える富士山がモヤっとしていました。ただ桜は満開で綺麗でありました。

平日にお参りがあると嬉しいですね。

今日は荷物を運ぼうと思います。

できる時にやっておかないと何があるかわかりませんからね。


最近では「癒し」という言葉もすっかり定着しましたね。皆さまは癒されておられますか?

ただ癒されることが共感されているということは、何らかの形でストレスを抱え疲れているということなのでしょう。

季節の変わり目は体調を崩してしまうこともあります。私など筋肉痛とコリが全身を包み込んでいますからね。このように私たちは自分の都合通りになればいいなどと思って生きています。またTikTokを見ていると必ず、スルーしたら良くないことが起こるから最後まで見て幸せに、お金持ちになる波動を受け取ってください!などと脅かされます。あれをどうにかしていただきたいです。私もなるべく【少欲知足】を心がけて、私にはちょうど良いと思いながら生きてはいるのですが、煩悩具足の凡夫ですから、モヤっとするのです。


最近では新NISA効果も薄れたのか株価も上がらなくなっています。どんなに上がってもフリーランスの青色申告の超法寺は支払いに追われる日々で豊かさなど実感することがございません。気がつけば「不安」という名の「苦」を深めているのであります。


仏教の大きなはたらきの一つに【抜苦与楽】(ばっくよらく)があります。

江戸時代の妙好人、三河のおそのさんの話です。おそのさんは普段からお寺に参り、お聴聞を欠かさない念仏者でありました。ある時にお寺のご住職に、仏法が広まっているか尋ねられ、「人はともかく、私の場合は繁盛も繁盛、大繁盛です。」と答えています。

「朝から晩まで、あるわないわ、足るわ足らぬわ、可愛いわ憎いわ、三毒やら五欲やら、それはそれは繁盛しております。」

それは仏法の繁盛ではなく、煩悩の繁盛ではないかと半ば呆れた住職に、おそのさんは、

「はい、これさえあったらなもうし」


【無碍光(むげこう)の利益(りやく)より 威徳広大(いとくこうだい)の信をえて かならず煩悩の氷とけ すなわち菩提の水となる】『高僧和讃』


煩悩がなくなれば幸せな生活ができる、立派な人間になれると考えがちな私たちです。

仏教では、煩悩を無くせるとは説いていません。無くせない煩悩を抱えた本当の自分に会うことが仏教の眼目(がんもく)なのです。

自分の都合や自分勝手な思いという「モノサシ」を振り回して自ら不安を生み出している、そんな自分に気づかせていただくのが仏教です。そこから開かれてくる【与楽】(よらく)は、私たちが求めていたはずの「癒し」とは、一味違った世界を導くことだと思います。


南無阿弥陀仏が我が身に宿っていればこそ、どんな悩みや苦しみを抱えていても、抱えたままで究極な「癒し」となるのです。

私たち人間には、「厄除け」などできない身ですから。神仏にどんなに頼んで祈願してみても、私が死にゆく身である限り、厄から解放されることはありえません。

【抜苦】(ばっく)は、煩悩を抱えたままの阿弥陀さまのお救いをいただいていく他には道はありません。

それには、おそのさんのようにただ法に身をまかせて生きていくしか用はないのでしょう。

そんなことを改めて感じたことでした。

南無阿弥陀仏

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