皆さま、こんにちは。
雨はあがり晴れ間が出てきました。
おかげさまです。
今日は来月の報恩講に向けてお掃除と障子の張替えをします。障子は前のオーナーさんの時分からですから10年は替えていないので、触れただけで破れてしまいます。
その為、このままでは控え室としては恥ずかしいので少しずつでも直していきます。
さて超法寺には豆柴君たちがいらっしゃいます。いわゆる看板犬であります。
フレンドリーではありますが、柴犬は頑固です。でも優しいですよ。
毎朝の朝事は必ず仏前に身を置いてくれます。
世間では「犬畜生」などと揶揄されますが、人間でさえ仏前に身を置くことがないのに、その犬畜生はやはり仏さまにならせていただく資格(仏性)は無いのでしょうか。
先日は『大阿弥陀経』でのお釈迦さまのお言葉をご紹介しましたが、この度は懐かしい『無門関』(むもんかん)にお聞きします。
私は臨済宗の大学を出ていますので実に懐かしい。
ここには「趙州の無字」(じょうしゅうのむじ)という公案にこのような話が出てきます。
ある時、趙州和尚(778→897)に修行僧が、「狗子(犬)にも仏性(仏になりうる可能性)か」と尋ねた。
すると和尚は「無」と答えたというものです。
ではなぜ和尚は「無」と答えたか、というのがこの公案の問いかけなのです。
師匠はこの公案に対する弟子の答えを見て、弟子がどれだけ修行を達成したかを測るのです。
さて趙州和尚が答えた「無」は、有るか無いかの相対的な無ではなく、「有無」を離れた絶対的無、つまり「無心」や「無我」といった境地を目指しているのです。
簡単に言えば、物事にこだわらない「無執着」の生き方を教えようとされているのでしょう。
しかしながら私たちはなかなかそのようにはなれません。何故か、凡夫の身だからです。
親鸞聖人は『一念多念証文』に、
【凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず】
と申されています。
我が身は生涯、迷いの境界から抜け出すことができない身であると深く内省され悲しまれたのが親鸞聖人でありました。
私が寄付させていただいていますワンコピースジャパンの活動を拝見しますと、私たち人間は一方的な都合で虐待をしたり、捨てられてしまう犬(猫)がたくさんあります。
彼らにもちゃんとした感情があるのです。
可愛い時だけ大切にして飼い主の都合で捨てられてしまうのが現実です。ペットショップで、まるでおもちゃを買うような気持ちで購入し、「飽きたから」とか「大きくなったら可愛くなくなった」とか「老いてしまったから面倒が見られない」などという実に身勝手極まりありません。まさに地獄行きの種を日々撒き続けているようなものです。
野犬も16万頭も捕獲されています。
そのうち1万頭は里親に引き取られるが、それ以外は悲しいかなガス室で命を落としてしまうのです。ペットも家族だと言っていたはずの飼い主の都合であります。
そのような私たちの生き方を悲しまれている阿弥陀さまがお身捨てになられるはずはありません。
以前に「崖っぷち犬」とニュースになったものがありました。ご存知の方もあるでしょう。
この犬は誤って高い崖の途中まで落ちてしまい、動けなくなり8日間飲まず食わずでいた。
救助隊が助けようとしますが人を恐れて逃げようでするので、なかなか捕獲することができません。2日をかけて何とか網を張って助けることが出来たのです。
私はこのニュースを見て、この野犬が私自身で、網は阿弥陀さまの大慈大悲であるように感じました。
阿弥陀さまの大悲大悲の網に気づこうともせず、苦悩の諸行無常世界を右往左往して崖っぷちの日暮しを生きようとしている私ではなかったのでしょうか。【火宅無常】
煩悩具足の凡夫の私に対して阿弥陀さまは「落ちても大丈夫だよ。まかせてくれ、阿弥陀は必ず救うぞ」と待ち構えていてくださりはたらいていつくださるのがまさに阿弥陀さまの他力の姿ではなかったかとお味わいしたことです。
※公案とは、禅の祖師たちの具体的な行為や言動を取り上げて、禅の精神を究明するための問題を言います。
いかがでしたでしょうか。
私たち人間が一方的な偏見で犬畜生と蔑もうとも、阿弥陀さまの大悲の心はあらゆる命にはたらいていてくださるのです。
それを忘れずに生きていきたいものですね。
私はそう思います。
南無阿弥陀仏
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