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執筆者の写真超法寺の住職

新たな気分で奮励します

皆さま、おはようございます。

ひんやりした朝ですが雨は上がったようです。

激動の引越しを何とか終えて、新たなスタートを切ります。身体は相変わらず悲鳴を上げていますが休んでいる暇などありません。

今日はこれから神奈川県愛甲郡までお葬式へ。

その後は千葉市まで月忌参りです。

この広範囲のお参りが超法寺であります。


お出会いを大切にしながら少しずつ歩んで参ります。荷物の片付けは明日以降に少しずつやります。皆さまもどうぞ良きお休みをお過ごしくださいませ。


今朝の言葉は、

【なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬはひとの なさぬなりけり】[米沢藩主 上杉鷹山氏]

やれば何でもできるのだと、奮励(ふんれい)努力することを促す言葉です。


この世で生じる様々な問題に対し、私たちが努力をし、それぞれできることに精一杯力を尽くすことはとても大切なことです。

しかしながら、現実問題として努力をすれば報われ、頑張れば幸せになれるかといえば、必ずしもそうとは言えませんね。

何とかなることもあれば、どうにもならないこともある、それが私たちの人生です。


あるいは私は何のために生まれてきたのか、なぜ生きているのか、そしてなにゆえ死んでいくのかという問題も、人間の力だけでは解決できない事柄です。

では、どうしたらいいのでしょうか。

そのことを考え、回答を見つけられた方がお釈迦さまであります。


仏教には、たくさんの仏さまがおられます。

仏とは(誓い)や(願い)を立て、それを実践された方であります。それぞれの仏さまが、それぞれに個性的な願いを立てられています。

その中で阿弥陀さまは、独自に四十八の願いを立てられました。その十八番目に【あらゆるものを必ず救う】という願いがあります。

これこそが阿弥陀さまの(本願)です。

(誓い)、誓願とも言います。

もっと言えば阿弥陀さまの(決意)のような意味があります。必ずやり遂げるという非常に強い決心を表す言葉です。


たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至

心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、

乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ

『仏説無量寿経』第十八願


これは阿弥陀さまは「私が仏になるとき、すべての人びとが心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら私は決してさとりを開きません」と仰っしゃられました。


そうせずにはおかれない、必ず救おう。

何故ならば私たちは皆、煩悩しかありません。

そこへ埋没しながらでしか生きて行けません。

自力などあてにはならないのに、どうしても自己中にしか生きていけませんから、私の方で願うのは自分の欲でしかないのです。

欲に生き、欲に振り回され常に争い生きています。そのような私がどうしてさとりなど求めていくでしょうか。

信仰と言ってみても、困ったときにお願いしたり、お参りしたら利益があるだとか、お賽銭を入れたら(最近はその賽銭すら奪おうとすり輩が)願いを聞いていただけると思う。逆にそうならないと、「神や仏なんかあるもんか」と文句を言う。そんな利己的なものは真実なる神仏には通用しないのです。

どこどこまで行っても、私の都合でしか物事をはかれない私はどうすればいいのか。


仏教はこう教えています。

【仏の願いを私が聞かせていただきなさい】

そう仰っているのです。

ですから浄土真宗では仏法聴聞を勧めているのです。せっかく遇えた教えなんだから聞いておきなさいと。阿弥陀さまは常に願い【本願】のはたらきをもって私を照らし続けておられますよ。気づいてくれよ、目覚めてくれよと。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツと声となり私に喚び続けておられます。

その声はきっと皆さまの大切なお父さん、お母さんが諸仏のはたらきとなり私に喚びかけておられるんじゃないかと私は受け止めています。


さて今日も尊いみ名を称えながら、強く明るく生きてみましょうよ。きっとそこに何かが見えてくるから。南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・


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