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執筆者の写真超法寺の住職

私が生きる意味を知ろう

更新日:7月17日

皆さま、こんばんは。三連休は充実していましたか。あいにくの梅雨天気ではありましたが。このような天気ですと、身体中の痛みが増して何をしたくない気分になります。今まで味わったことの無いくらいの筋肉痛で横になっているのも辛いのです。却って動いていた方が気にならないように感じます。お釈迦さまがお悟りになられてお諭くださった「人生は苦なり」はまさにこういうことではないでしょうか。

決して思い通りには生きられないのが私たちの人生であります。なったまんまを生きていく。それではなぜ生きていかねばならないのでしょうか。意味を知ることが大切です。


皆さまは、誰でも死んだら浄土に行けると思ってはいないでしょうか。まさか天国ですか。地獄と天国と浄土の違いがおわかりですか。

誰でも彼でも死にさえすればいいところへ行けるのなら、教えなんかなくていいのです。

ましてや神さまや仏さまもいなくてもいいんじゃないでしょうか。

皆さまは、子どもさんやお孫さんに生きることの意味と死ぬことの意味をちゃんと教えながら育ててきたでしょうか。親として大人として、最愛の我が子、我が孫に何を教えておかねばならないか、それはこの2つのキーワードではないかと思います。


私は小さな子どもさんがおられる際には「それいけアンパンマン」の歌詞を紹介しています。

「何のために生まれて、何のために生きるのかわからないなんて、そんなの嫌だ」

私が幼い頃は大人が言うことは皆正しいと思っていましたが、今は違います。大人から言われたらすぐにネットで検索します。いい加減なことを言ったらダメです。きっと言葉にはしないけど信用しなくなるはずですよ。


最近では赤ちゃんの髪を金髪に染めたり、名前をキラキラネームにしたりする親が増えているそうですが、子どもは親の持ち物ではないと思う。先人は子どもは授かりものと言います。

だれから?もちろんご先祖さまでもあり、仏さまからでもあるのでしょう。

せっかく人間に生まれたと言うのに、「何のために生まれてきたのか、何のために生きるのか、死んだらどうなるか」この三つを知らずに我が子を世の中で生きさせたら、きっと不安や悩みで辛いばかりの人生にならないでしょうか。一番頼りにしているべき我が親がこの三つの問いに答えられないのに、子どもさんはどうやって人生の壁にぶち当たった時に前に進んでいけるのでしょうか。


生きていくには覚悟がいるのですよ。

「覚」とは、目覚めるということ。

「悟」とは、悟るということ。


そうでなければ「老い」「病」「死」を全うしていくことなんかできやしませんよ。

私は何をしにこの世に生まれてきたのか、色々悲しいこと、苦しいこと、辛いこと、時には逃げたくなるほどの嫌な思い出も経験してきたのです。ここがわからない人生ならただ惨めな人生だと言ってもおかしくはないのではないでしょうか。だからこそ、幼いうちに、学生の間に、親の言うことを聞いてくれるうちにこそ、親は大人は我が子、孫に生きる意味を教えておかねばならないのではないでしょうか。


それなのに葬儀にも法事にも参加させずにいたら、一体いつ諸行無常に身を置いている自覚を子どもたちは知ることができるのでしょうか。

私はおかげさまで、おじいちゃんが、おばあちゃんが、おじさんが、おばさんが、お母さんがお父さんがそれぞれの思いで、それぞれのやり方で頑固な私にそれを教えてくださいました。私も毎日、悩み苦しみ迷いながらの人生を生きていますが、それでも生きる意味と死ぬ意味を知ることができています。

そんな先ではないでしょうが、死に往く道を知り、受け止めながら、真実な仏さまに導かれながら生きています。二度とない今日この日を少しでも悔いなく生きていくことを大切にしています。


いいですか。私たちの人生は、生きていることだけに意味があるんじゃないんですよ。寧ろ死んでいく意味こそに大切な意味があるのです。大方の人は、死ぬことに意味など見出すことができないのでしょう。無意味だと思っていながらそれを受け入れていかねばならないのだからまさに無惨ではないのでしょう。


「さようなら」で終わっていく人生のどこが素晴らしいのでしょうか。

仏さまの願いはそんなものではないはずです。

経典には「倶会一処」と説かれています。

「生まれてきて良かった」

「私が私で良かった

「色々な人と出遇えて良かった」

「また皆に遇わせていただける、有難い」

有難い人生でありました、と終わっていけるそんな人生こそ意味があるのではないでしょうか。私はそう思っています。


長生きすれば大往生ですか。

それはそれでいいのかも知れませんが、長さもあれば深さもあると言われた方があります。

短くても遇わせていただければ幸せな人生だと言えるのではないでしょうか。

逆に遇わずの人生だったら、ただ虚しい人生と言わざるを得ない気がします。

それを聞くチャンスをご先祖さまが遺してくれたのに放棄をしてしまったら実に勿体ないんじゃないでしょうか。


人間は仏さまの教えを聞くのが一番嫌いであると言います。

確かにお年寄りに、「わしはお寺さんが嫌いなんだ。死ぬ死ぬばかり言うからな。」と言われました。「じゃあ死ぬって聞かなかったら長生きするんですか。」と言ったら、「そんなことを言っているんじゃない」と、怒られたことがありました。皆さまはどう思われますか。


若いも、元気も、長生きも、何ら当てにはなりませんよ。病気が嫌いな人は、どんなにあちこちが痛くても苦しくても具合が悪くても決して病院へ行ってはなりません。そうすれば患者にはなりませんからね。行ったらそうは家には帰していただけませんよ。

私も過去に体験しましたからね。

病院で診てもらったら、「どうもありませんよ」とはなかなか言ってはもらえません。

だから、病気、患者になりたくなければ決して病院へ言ってはならないのです。


もちろん救急車も呼べば家には帰してもらえない可能性があります。また高齢だからと入院して「延命しない」同意書に安易にサインはしないでくださいね。私たち家族はかなりの後悔をしたものですから。

どんな人生を生きようが、私が私で良かったと思えるように仏さまは、おはたらきくださるのです。覚悟がいつまでもない、愚痴に埋没してしまう私に常に寄り添いながら、「まかせよ、救う」と南無阿弥陀仏の声となり喚び続けていてくださいます。


それを知ることこそ、私が何のために生まれたのか、何のために生きるのか、死んだらどうなっていくのかの意味を知ることだと思います。誰だって私だって、ピンピンして生きていたいし、コロリと人生を終えていきたいです。

しかしながら諸行無常に生きる意味は、なるようにしかならないことを知り、仏さまとご一緒の人生を生きて、死んでいくのですから。


独りじゃなかもん。


それを身をかけて教えてくれた方々はまさに仏さまのおはたらきではなかったのでしょうか。


親鸞聖人はご和讃に、

釈迦弥陀は慈悲の父母

種々に善巧方便し

われらが無上の信心を

発起せしめたまへけり

と、お示しくださいます。


私にちょうどいい、それが我が親が仏さまのように人生をかけて私に教えてくださったと。

私はそういただいております。

皆さまの親御さまも、きっと皆さまに真実なる安らぎの世界を教えてくださったのではないでしょうか。


この世に意味のないものなどないのだから。


私が勝手に価値観をそのような意味のないものとしているだけであります。

意味を知らないなんてそんなのは嫌だ。


そうだ、嬉しいんだ、生きる喜び。


阿弥陀さま、南無阿弥陀仏に出遇えたら、必ずこういう思いの私になるはずですよ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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