みなさま、こんにちは。
雨は小康状態になっていますが小雨は降っています。台風の影響がある方々にはお見舞い申し上げます。また昨日は神奈川県で地震がありました。ドン!という大きな音が鳴りましたが揺れは感じませんでした。確実に大地震へのカウントダウンでしょうか。油断せずに備えておきたいですね。また忘れた頃にやってきますよ。
さて浄土真宗でいう「悪人」についてお訪ねします。
『歎異抄』には、善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。とあります。
[善人でさえ、浄土に往生することができる。まして悪人はいうまでもない]
どういうことでしょうか。
なぜならば、自力で修めた善によって往生しようとする善人よりも、自分の罪業と無力さに深い自覚を持つ悪人こそ、阿弥陀如来の救済の対象であるからです。
「救いは阿弥陀如来の人間を救おうとする本願によるのであって、人間側の努力によるものではありません。親鸞聖人の絶対他力の思想を端的に表現しているのです」
ここでよくお聞かせいただきたいです。
浄土真宗では悪人でも信心一つで救われると説きます。
ただ「悪人」は、法律や道徳に反する一般的な意味での悪人を除外しているわけではなく、正確に言えば、【自分の力では悟りを開くことができない煩悩から離れられない人間の自覚を表しています。】
また「救われる」という意味は、この世で罪が許されるとか罪が消えるということではなく、罪を持ったままでの救いということです。
罪を背負ってしっかりと生きるようになるということなのです。だから、ただの悪人ではなく、阿弥陀如来の救いを信じる悪人が救われるのであります。
ただ悲しいかな、現代人には「煩悩具足で罪深い私」という自覚が希薄になってはいないでしょうか。他人の痛み、苦しみが我が痛み、苦しみとはならない形だけの念仏者にならぬように努め対ものです。
南無阿弥陀仏
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