皆さま、こんばんは。
今日は午前中、所用を済ませて午後からは業者さんにドアノブ交換をして、
いただきました。
明日はまた整骨院です。相変わらず回復はいたしません。それでも最近は正座をする機会がなくなってきたのが有難いですね。
さて今日は皆さまが平素よりご拝読されています蓮如上人の『御文章』その中からでも内容に少し違和感を感じていました[八万法蔵章]をご一緒にお味わいさせていただきましょう。
諸説ありますが、この御文章は、社僧、つまり神官に対しての御文であると言われます。
石川県の加賀の国、白山に近い四十万村という村がありまして、その白山神社の神官が念仏者をそしり、浄土真宗をそしり、みんなが大変迷惑している。日頃門徒の家を訪ねては色々と難癖をつけ、誹謗中傷をやっている。
そこで、蓮如上人はこのことを申し上げましたら、御文をおしたためになりまして、これをくだされた。お仏壇の前にこれをお供えしておきますと、神官がやってきてこれを読みまして、そこで他力のみ教えにうたれ、蓮如上人へ[帰依]した。つまり、神官が御文によって[帰依]したという、大変いわれの深いご文章である、と。他にも色々説があるようですが、私はこの説が何かスッキリします。
「それ八万の法蔵をしるというとも、後世(ごせ)をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。」
「と、いへり」とは誰かが言われたのです。
さて誰でしょうか。何と【天照大御神】(あまてらすおおみかみ)の仰せだというのです。
これは驚きました。天照大御神の託宣、いわゆるお告げであるというのです。神官に対して「こういうように、天照大御神も述べてある」ということをまず最初にお示しになられた。
『天照大御神の託宣』
依那(えな)を切る竹の上にも和光の光有り、二種の重服有りといえども、慈悲の家を出でず、千日の注連(しめ)を曳くといえども、不善の門に向わず、八万の聖教に通達すといえども、後世を知らざる者は無智の者なり。一文を解せずといえども、後世を恐るる者は有智(うち)の者なり。山海の珍物は飯の上の飾、万行の修善は慈悲の上の行なり。」
これが天照大御神の託宣です。
これを先ず蓮如上人は御文の最初にひかれまして、“このように天照大御神も述べておられる。いかに物を知ったからと言って、後生の一大事を知らないものは、これは愚か者である“と、お示しになられるのです。
愚者(ぐしゃ)という言葉の中に、三通りの意味があります。
一、放逸無慚{ほういつむざん)のもの
二、確かに物は知っているけれども、仏法にも
通じておるけれども、本人が仏法以外のこ
と、例えば神、そういう方に心を向けてい
るもの
三、仏法を学んでいながら、後生の一大事とい
うことをわがものとせずに、阿弥陀如来の
ご本願に心の向かない「物知りの無信仰」
《愚中の愚》(ぐちゅうのぐ)
どんなにたくさんのお経を読み、聖教に通じていても、信の一念で救われるということを知らなければ、阿弥陀如来さまにおまかせして救われるという本願のおいわれを知らなければ、それは愚か者であるという厳しいおさとしです。
「物知りの無信仰」と併せて「女人成仏」までここにお説きになられました。
末法のお互いが救われるのは、【弥陀をたのむ信の一念よりないぞ!】というお示しです。
【説我得仏十方衆生】
すべてのものを救わねば、私も正覚はとるまい。すべてのものに、如来のまことを信じさせ、如来のみ名を称えさせて、必ず浄土に迎えることができなければ私も仏にはなるまいとお誓いくださった。その私、阿弥陀如来さまのご本願にあうものがなかなか遇えないでいることのおさとしではないのでしょうか。
皆さまも、どうぞお称えしてください。
簡単に思いますが、そう簡単には私の口から声とはなりませんよ。南無阿弥陀仏は阿弥陀さまのご本願のはたらきです。つまりは私が素直にいただかなければ声にはなりません。
なっておられる方は、もう阿弥陀さまがご一緒していてくださいますから安心して生きていきましょう。私が私で良かったと思えるようになっていきますよ。私が変わるのではなく、阿弥陀さまが変わるように少しずつ少しずつ、はたらいていてくださるのです。
毒を好まない私にならせていただくのです。
そのお心を『御文章』は優しく私たちに語りかけておられます。大切にご拝読いたしましょう。もちろんご拝聴もいたしたいですね。
耳でお聞かせいただきます。
南無阿弥陀仏
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