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執筆者の写真超法寺の住職

当てにならないのに

皆さま、こんばんは。

築地本願寺の報恩講は無事に終わりましたね。

ご門主はお元気そうです安堵しました。

ただ本堂が満堂にならなかったとは意外でした。新型コロナの影響があったのでしょうか。


来週は超法寺の「遷座入仏式•親鸞聖人報恩講」です。今年最大の法要です。新たな超法寺の一歩を敬愛します成田了恵ご住職のお取次をいただきたく、今からワクワクです。

是非お参りくださり、ご一緒にお聴聞させていただきましょう。


この度は親鸞聖人が人生をかけてお伝えくださった浄土真宗の特色をご紹介します。


【世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来】と天親菩薩さまが述べられています。


【無礙光如来に帰命したてまつる。修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡(こうせん)す。広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。】


※生きとし生けるものを救うために、「一心」をあらわすとあります。

これこそが浄土真宗の根本であります。


一般的には「信心」という言葉を使いますが、ここには【ただひたすらに阿弥陀如来におまかせする】=阿弥陀如来に帰命する心でなければならないのです。

残念ながら、私たち人間にそれは作り上げることはできませんね。命終わるまで【煩悩から離れられない凡夫】なのですから。


【本願力の回向によりて】ですから、阿弥陀如来から与えられた回向の心なのです。


悲しいかな、私たち人間は常に心がコロコロと変わります。正に当てにはならないのです。

あー言っていたのに、すぐに違うことを当たり前のように言っています。

心から•••••などと言いますが、人間の心は常に自分の都合でコロコロ変わりますからね、当てにはならない、頼りになんかなりません。

口約束なんか信じちゃいけないよ。

必ず証文を交わさないと危なっかしいです。


『歎異抄』にも、

[さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし]と言われています。

人間(私)の本当の姿を鋭く見通しておられますよね。

どうでしょうか?いやいや、そんなこと私がするわけないでしょう。

でも、何かの縁によっては、そんなはずのない私が、どんなことをもしかねないのです。


まさしく人間(私)は当てにはならないし、頼りにはならないのであります。

また悲しいことにそんな自分だというのに、自分は正しいなどと錯覚しているから始末に悪いのです。目が外についているからか他人に対してばかり批判や否定をしているじゃないですか。


では、そんな私は何を頼りにすればいいのか。


【仏心とは大慈悲これなり】

仏さまの大慈悲心、無差別平等のお心の中に包まれている私であることを知らされ、それを私の心にいただくというところに、本当の人間(私)としての生き方があるのではないかと思うのです。


つまり当てにはならない我が心や思案に囚われていくのではなくて、阿弥陀如来の真実の心で満たしていくことではないでしょうか。

真実など持ち得ない人間(私)だからこそ、阿弥陀如来の大慈悲心が声と仕上げられた南無阿弥陀仏を愚痴の私の声にいただいていく。

ただそれしか無いということなのでしょう。


そんなことを改めて感じました。

超法寺の本堂が南無阿弥陀仏の声で満たされていくことこそが私(住職)の夢であります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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