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執筆者の写真超法寺の住職

大悲のこころ

皆さま、おはようございます。

今日も入間市は茹だるような暑さであります。

毎年ではありますがこの暑さは年々厳しく感じられる。しかし、きっとこれは私の「老い」がそう感じさせているのではないかと思うのです。感じることすべて私たちは自分を基本に捉えているからです。お参りへ行って皆さまとお話をしていて感じることは、やはり皆さまそれぞれで違うということです。

「もう歳だから」というと、「いやいやご住職は若いじゃないですか」と言われます。


私はもう57歳ですから若くないですというと、「まだ50代じゃないですか」と。

まるで話が噛み合わないです。

私の歳だと人によっては孫までいたりします。

孫がいれば一般的にはお爺ちゃんですよ。若いはずがないのに、年配者から見ればやはり若いとおっしゃっている。


ですから、仏法も同じで私の方に置いて語ると皆違ってしまいます。煩悩具足の私がいくら語っても広大無辺の阿弥陀さまなどわかるはずがありません。だから阿弥陀さまは私たちに、「まかせよ、救う」と、おはたらきくださるのです。それなのに、常にこちらに阿弥陀さまを置いて語るからいつまでもわからずに苦悩しているのです。


浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、阿弥陀さまの大悲のおこころを心底から讃えられました。

その嬉しさを身には礼拝[らいはい]として、言葉には讃嘆[さんだん]として、示してくださいました。

 【そのまま救う】のお心

一、如来大悲のご恩を伝え、杖とわらじの

  九十年


二、罪や障[さわ]りも、そのまま救う

  弥陀のよび声あおがれた


三、ともに凡夫と手をつながれて

  西の国までご一緒に


これは『正信偈』の[正像末和讃]に【恩徳讃】の名で親しまれている一首[いっしゅ]があります。

 如来大悲の恩徳は 身を粉[こ]にしても

 報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだき

 ても謝すべし


「身を粉々にしても報じなければならぬ」と、阿弥陀さまの大悲の御恩を仰いだのが親鸞聖人です。その阿弥陀さまの大悲心を代々伝えてくださった善知識(お師匠さま)の御恩も、骨を砕いてでも報謝しきれない大きな御恩を思われたのでした。


親鸞聖人は八十五歳の時に『正像末和讃』を五十八首をお作りになられました。

親鸞聖人のお心の躍動が、その強い表現から拝察できます。多くの「べし」、「なり」、「たり」、「あり」などが用いられていて、和讃をいただくたびに心が引き立てられてくださいます。

代表的な和讃をご紹介します。


 如来の作願をたづぬれば

 苦悩の有情をすてずして

 回向を首としたまひて

 大悲心をば成就せり



 弥陀大悲の誓願を

 ふかく信ぜんひとはみな

 ねてもさめてもへだてなく

 南無阿弥陀仏をとなふべし



皆さまもお聞きになられたことがありましょう。

私たちは罪を私を基準に軽いか思いかと判断していますよね。あれは大したことがないとか。

死ぬまで煩悩から離れられない私たちを【凡夫】(ぼんぶ)と言いますが、この煩悩は私の努力【自力】では無くすことはできません。


阿弥陀さまは自力に生きようとする私たちのために他力本願[南無阿弥陀仏ひとつ]で一人も漏らさず救い取る法を完成[成就]されました。私たちは阿弥陀さまの本願に遇わせていただくことで、私の努力ではなく、阿弥陀さまの願力によって罪や障りを転じかえてくださるのです。勝手にそうなるのではなくて、出遇うことによってそうなる自然の世界を知らされるのです。


【そのまま救う】とは阿弥陀さまのお呼び声であります。

[ワレニマカセヨ、ソノママ、カナラズ、スクウ]

[浄土二ツレテユク]

[ナモ•アミダブツ]


これを知ってくれ、それが私たちに縁をくださったご先祖の切なる願いであります。

私の殻に閉じこもっていると、いつまでもそれがわからずに自分の命の行方がわからないままになってしまいます。それがわからないから亡き人がどこへ行ったかもわからないまま苦悩して生きていくことになってしまうのですね。


是非、仏法を聴聞させていただきましょう。

今日も熱中症に気をつけてお過ごしください。

こまめにお水、麦茶を飲んでください。

南無阿弥陀仏


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