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執筆者の写真超法寺の住職

倶会一処の世界

皆さま、こんにちは。

浄土真宗のみ教えが盛んな土地の墓地では

【南無阿弥陀仏】、【倶会一処】と彫られたお墓ばかり目につきます。関東ではまず見かけることはごく僅かだと思います。関東圏の墓地には仏さま不在、仏教徒不在であります。

皆さまのお墓はいかがですか。


亡き人、ご先祖を死者として弔う世界には安穏な世界はありません。

昔に流行りました[千の風]はキリスト教的な歌詞ではありましたが、[そこにはいません、眠ってなんかいません]とあります。

ではお墓は何のためにあるのでしょうか。

よく考えてみたいものですね。


浄土真宗のみ教えでは、死ぬのは私ではなくて私が抱えていた煩悩が亡くなるのです。

私自身は【往生】させていただきます。

阿弥陀如来のご本願のお救いを南無阿弥陀仏を称える身にならせていただき、二度と輪廻転生しないさとりの命[仏]に仕上げていただいて天国ではなく【浄土】へ生まれて、すぐにまたこの五濁悪世と言われる人間世界に南無阿弥陀仏のはたらきとなり還り、あらゆるものに南無阿弥陀仏を届けるお仕事をするのです。

つまり、眠ってる暇などないのですね。


親鸞聖人はご和讃に、

 超世悲願ききしより われら生死の凡夫かは

 有漏の穢身はかはれども 心は浄土に遊ぶ

 なり 『帖外和讃』


と、おっしゃっておられます。

超法寺の新聞『遊』はここから来ています。


 釈迦弥陀は慈悲の父母

 種々に善巧方便し

 われらが無上の信心を

 発起せしめたまへけり


とも、おっしゃっておられます。

阿弥陀さまはあらゆる神仏から見捨てられた私たちを救いたいという願いで仕上がっています。願いを力として仕上がっている仏が阿弥陀如来であります。

救わずにはおれないという、もしあなたが私の救いから漏れるようなことがあれば私は仏にはならないとお誓いくださいます。


それなのにその願いに背を向け自分勝手な生き方をしているのが私たちではないでしょうか。

戒めがあるのは、そう言わないとするからです。人間はしてはいけないものでも常に自分勝手な考えで生きようとするものです。

自分がされたら嫌なことも自分ならばいいと過ちを繰り返しています。

阿弥陀さまを我が身にいただいて生きますと、あら不思議、毒を好まない私になっていくのです。これは南無阿弥陀仏の声となり私の身心に宿るからです。阿弥陀さまのおはたらきは私と一緒であり一体となるのです。


一体となれば阿弥陀さまは二度と私から離れてはくださいません。どこどこまでもご一緒してくださいます。


倶会一処とは、

倶[とも]に一処に会うと読み、阿弥陀経の中にあるお言葉です。それぞれの境涯によって味わっていただきたいと思います。


浄土真宗では仏法聴聞を大切にします。

ですから葬儀でもご法事でも必ず法話をします。仏さまのおいわれを聞くのです。

何のために生まれて、何のために生きるのか、そして死んだらどうなる私なのかを亡き人を通して聞いておくのです。

聞いてもわからない私が聞かないでわかるはずありません。わからないから誤った生き方をするのです。

せっかく真実なる仏さまに遇えるチャンスに恵まれたのに遇わなかったら勿体ないよ。


私はそう思います。

仏事をどうぞ大切にするあなたになってください。それが故人さまの切なる願いですよ。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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