皆さま、こんばんは。
良いお天気でしたね。
今日も感じたのですが、なかなか仏法を皆さまにお伝えすることが容易ではないなと痛感しました。しかしながら、だからといって話さないのではいけません。開教の先輩からも、「伝えるって難しいが、伝わるものだからなぁ」
確かに私は【使い】であって【師匠】ではありません。伝えるのは南無阿弥陀仏の阿弥陀如来のおはたらきです。
ここを見失ってしまったら元も子もありません。
さて、妙好人のお話をご紹介します。
「お寺参りも信心いただこうとおもえば、なかなか苦労するなぁ」(某同行)
「そんなものもろうたら、かえって厄介で、日々の日ぐらしにも困る。わしは仏さまに信じられているから楽なもんじゃ」(与市同行)
私たち人間が生きていくということは、大小多数の罪を重ねて行くことなのです。
私自身、生まれてこのかた数限りない命を奪って生きてきました。魚、牛、鶏、卵、野菜、米、麦、野菜、そして虫までも。
その上、【心口各異】(しんくかくい)とありますように、口と心がいつも違っていなければ世の中は摩擦だらけです。
[人問わば白を黒とも答うべし、おのれに問わば何と答えん]という歌もあります。
私たち人間は、この命終わるまで「煩悩(欲)を離れていくことがありません」から、自身の力をもってはさとりの道を歩むことは到底できません。それなのに「死ねば仏」などと油断して生きているから困るのです。
はい、法話をする私はです。
救われるはずのない私が救われる。
だから不思議ではなく不可思議と親鸞聖人はおっしゃっておられるのですね。
阿弥陀さまの先手の救い、南無阿弥陀仏の声が届いて、受け取り、愚痴の私の口から声となり南無阿弥陀仏とはたらいてくださるのです。
称えたからではなく、阿弥陀さまの他力のおはたらきが私の煩悩具足の身体に住みつき、有難うが南無阿弥陀仏の声に、お父さんお母さんと呼ぶ声が南無阿弥陀仏となって常に宿っていてくださるのです。
私の頑張りではなく、どこどこまでも阿弥陀さまのひとりばたらきでありますね。
救われん私がいるから、助けずにはおれないという阿弥陀さまの大慈悲心が南無阿弥陀仏となっているのです。
愚痴を言うまんまに、「お前のことは助けてあるから心配するなよ」と、真受けしていくのです。
どうぞ大切にお聞かせいただきたいですね。
南無阿弥陀仏
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