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執筆者の写真超法寺の住職

亡き人が喜ぶこと

皆さま、おはようございます。

三連休明けの朝、雪はいかがでしょうか。

我が街、入間市は凍結はない模様ですが結構降りましたね、この後は急速に回復するようです。


さて最近、家族葬のコマーシャルが増えています。コロナ禍の影響で葬儀をなるべく小さく簡素に行う傾向があり葬儀社としても四苦八苦しているようです。

いかにして数を確保するか、取れるところで稼ぎたいとあの手この手でアピール合戦しています。


もちろん超法寺は、このような僧侶派遣業者からご紹介をしていただく機会が相変わらず多いです。複数社からご紹介していただいています。しかしながら、いわゆる「葬式坊主」は目指しておりません。

浄土真宗本願寺派のお寺として恥ずかしくない、そして継続的に皆さまの安心をお届けし、涙から笑顔を取り戻すお手伝いをすることを大切にしています。

そのためには、ただお経を読み(お経の宅配便)をするお寺ではありません。

資格だけで活動してはいません。


浄土真宗本願寺派の宗風を大切にみ教え(教義)を正しくお伝えしています。


では大切にするとはどういうことなのか。


それは故人に対する感情に固辞していくことではないと考えています。

某葬儀社のコマーシャルのように、故人のために何かをすることが生前に好きだったものを統一感を持ってしてあげることには違和感を感じてしまいます。

本当に故人がそのようなことを望んでいるのでしょうか?

わたしはそうは思わない。

葬儀はただのセレモニー(イベント)ではないのだから。

少なくとも浄土真宗の葬儀はそうあるべきだと思います。


むしろ、故人は身をかけて、命を通して、私たちに諸行無常を教えてくださいます。

あらゆる命は移り変わる。決して立ち止まることはできません。生まれたら必ず歳をとり(いつまでも若いと油断する愚かさ)、老いていく(長生きすれば孤独になっていく。なぜならそれほど長生きする人は少ないから知り合いもいなくなる。そう、浦島太郎のごとくです。)、そして必ず死んでいかねばなりません。(自分は死んだらどうなるのかわからないことは暗い闇に落ち込むような恐怖であります)


これから逃れていくには仏法を聴き、仏法と共に生きていく他にはございません。

その上で、地獄行きの生き方をしなければ生きて行くことができない私の姿を認識していくのです。


地獄行きの種は、たくさんありますが一例をご紹介しましょう。

◉嘘をつく◉殺す(命あるもの)◉盗む◉男女のトラブルを起こす(不倫など)◉飲酒をする


これらを死ぬまでに克服しませんと人間は死んでも往生することはございません。

だから死んで天国に行くことも極楽に行くこともないのです。これが真理です。


❎死ねば仏

これは阿弥陀如来さまと出遇い、南無阿弥陀仏を我が耳に聴き、愚痴を申すこの口に南無阿弥陀仏と称えられるようになることで叶うのです。

私がそうなるために阿弥陀如来の一人はたらきがあるのです。


つまりはそれを皆さまの大切な故人が仏縁をもってくださり私たちに阿弥陀如来さまのご本願を届けてくださるのです。


《サヨナラは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束•••》(セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子)


サヨナラするのではないよ。

また逢えるからね。

どうか、私の葬儀をきっかけにして、

仏さまの願いを聞いてくださいね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、お念仏申すあなたになれば必ずまたお浄土で遇えるのだから。そんな皆さまになってくれることが、死に行く私の願いですよ、喜びですからね。それこそが阿弥陀如来さまの私への約束だから。

間違わないでくださいね。

いいかい、南無阿弥陀仏だよ。

あなたたちがお念仏を称えて生きてくれることが私の願いだからね。


仏教の素晴らしさはここにあると思います。


今日はバレンタインデーですね。


私には相変わらず「縁」の無い行事です。

大好物の「ロシェ」を食べて過ごします。

阿弥陀如来さまが私を大切に思っていてくださいますから安心ですよ。

だって人間の愛は限界があるから。

愛はえてして「憎」に変わるから恐ろしい。

だからこそ、今愛してもらえているならば精一杯感謝して喜んでくださいね。

当たり前の「愛」などないから。


今日も一日、阿弥陀さまとご一緒に。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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