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執筆者の写真超法寺の住職

一緒だから大丈夫

皆さま、こんばんは。

モヤっとした一日でした。

晴れるではない、雨が降るでもない、梅雨時の典型的な不快な湿度の高い一日でした。

今日は人生初のMRIを経験しました。

およそ30分、けたたましい音を聞きながら[でもヘッドフォンをしてもらい音楽を聴きながらでした]じっとしていました。

膝の靭帯が綻んでいましたね。それほどの追突事故の衝撃があったということですね。

先生からは骨自体にはほぼ異常はなく、ムチウチだからすぐには治らないという診断でした。

しかし、靭帯断裂じゃなかったのはありがたかった。[断裂していたら歩けないわ]


診察後、いつもの整骨院へ行きました。エコーで痛みのためのたうちまわったのは言うまでもありません。

皆さまもどうぞ他人事とは思わずに十分にお気をつけくださいませ。


さて、人は法を聞くために生まれてきました。

そして人は法を実践するために生きているのです。集大成として人は法を伝えるために死んでゆくのです。


それなのに世相を見ていますと、法に背を向け、いかにして悪いことを是として、その悪いことをあたかも正しいことのように誤解して悪いことを積み重ねて、ただ死んでゆく人があまりに多いことでしょうか。死ねば仏は、法に遇えた人のことを言われたのに誤解されています。まことに悲しいことです。


先の都知事選もまさに人間の欲望がうずまいていたように強く感じました。これからの四年間をまた現職に委ねるという決断をされましたから粛々と政策を支えていただきたいですね。


さて今日のMRIは不安な気持ちでしたが、ふと母を思い出しました。晩年母も病に臥していさました。大変苦しい姿を見せていました。でも母は決して私には「苦しいよ、痛いよ」などとは言わなかったです。母としての意地なのか、それとも親としての優しさだったのでしょうか。[親は死してなお我が子を育てる]と言いますが、こういうことなのでしょうか。

私が人生初の入院した時には「お兄ちゃん、お母さんが大丈夫なの?」って聞いたら、「お母さん、僕ほど健康に気をつけている人はいないから。」と言ったのに、どうしてこんなところで寝ているの?って言われたことがありました。恥ずかしさで涙に暮れたことが懐かしいですね。その時のことを思い出していました。


死してなお、母は私に寄り添ってくださいました。涙が溢れて口には南無阿弥陀仏が声になりました。はたらいていてくれたのですね。

特に治療や手術をしたわけじゃないのに、私を常に心配していてくださるのですね。

いつも一緒にいてくださいます。

不安に出会うたびに無常を知らせてくださいます。不安の中に南無阿弥陀仏の安らぎとなって私に宿っていてくださるのですね。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ、南無阿弥陀仏




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