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執筆者の写真超法寺の住職

まことの救い

皆さま、こんばんは。

新年2日目が早くも終わろうとしています。

新年のご挨拶は済みましたか。

また神仏にお願い事をされましたか。

それも「私を、家族を」と。

きっと煩悩具足の身であればそうされるのでしょうね。


しかしよく考えてみてほしい。

私の願いは四苦八苦を離れたものでしょうか。

きっと違うと思います。

なれば叶えられるはずはないのですよ。

叶えられるはずのないものを叶えたいなどという人間の驕りが世の中に争いの種を蒔いているのですね。

本来はどうあるべきかを尋ねてみたい。


皆さまはどちらを生きていますか。

生きるための人生か、死ぬための人生か。

どちらが私の生き方として優先するべきでしょうか。それは生きるためと言われるでしょうか。

でも縁が尽きるならば若いも元気も役にはたちません。待ってくださいは通用しません。

そして煩悩具足の凡夫は自らの力では往生はできません。


煩悩具足の凡夫を救えるものは阿弥陀如来さましかおられません。そして阿弥陀さまにお願いしても、阿弥陀さまのお願いを知らねば、お願いをうけいれ、お願いにおまかせしなければ、まことの救いとはなりません。

ワガママし放題では、まことには出遇えません。


前ご門主さまは、「文明と非文明の衝突、宗教の対立としないで、事件の背景を見定め、世界の平和を築くことこそが仏教徒の使命である」と仰ったことがありました。

昨年も世界中で争いが絶えずに起こりました。未だに毎日多くの尊い命が奪われてしまった。


【阿弥陀さまに願われているいのちに目覚め、少しでも広い世界に向かって開かれた生き方をしたい。】


こうする他にはないのではないでしょうか。

皆さまがそれぞれこのことに気づき、そうなるように心がけていくことが大切ではないでしょうか。

好きだから優しくするとか、嫌いだから無視する、苛める•••そんな中に安穏などあるのでしょうか。私は違うと思います。

全てのいのちは阿弥陀さまに願われた尊い命。

そして手を携え、共に歩んでいくべき命。

何がまことであるのかをはっきりさせねばなりません。自分の宗教を迷信、邪教と思っている人は皆無です。【救いの本質】を明らかにしなくては答えは出てきません。

今世の中には、「お金が儲かる」、「病気が治る」そういう類でしょうか。教祖を神格化したりしていますが、先にも書きましたが煩悩具足の凡夫たる人間が神になったりはしません。

結局、最後まで人間の最大問題である【生死】の解決にはなりません。


私たち仏教徒は、【仏になる教え】を信仰します。ここを離れたら仏教ではありません。


私たち浄土真宗は親鸞聖人が開顕(かいけん)くだされたもので「凡夫が仏にならせていただく教え。それも阿弥陀如来と同じ悟りを開かせていただく救い」であります。


『教行信証』には、【親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。】


「賢者や聖者が仏になる道はいろいろあるが、凡夫が仏にならせていただく道は、これより他はない」とお示しくださいました。


※凡夫とは、仏になる力や可能性が全くない私のことで、修行もできずに戒律すら守れず、善根も積むことができない、全く地獄必定の私のことであります。

この自覚がない生き方にはとても往生の道は開かれることはないでしょう。

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凡夫が仏になるためのポイント

〇凡夫を仏にしてくださるお方

〇そのはたらき

〇そのはたらきを受け取った者


◎凡夫を仏にしてくださるのは阿弥陀如来さまのみであります。

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阿弥陀如来さまは、凡夫たる私を仏にするために、願いを起こし、行を積んで阿弥陀となられた如来さまであります。「正信偈」を参照

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阿弥陀如来さまさえいれば、みんな仏にすることができるのか。「死ねば仏」?

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凡夫たる私(人間)を仏にするための準備、用意と手だてとをはたらきとして「声」となり南無阿弥陀仏【大行】と言います。誰にも真似ができない最高のはたらきを私たちに届いていてくださります。

この南無阿弥陀仏のはたらきを受け取ったことを【信心】というのです。

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この信心を受け取った者が阿弥陀如来さまの大慈悲心のはたらきにより【往生】させていただきます。

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浄土に生まれて仏にならせていただきます。

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まかせよ救うと喚び続けてくださいます。


つまり皆さまがご先祖さまの葬儀やご法事、お寺参りで南無阿弥陀仏の声を聞かせていただく意味はここにあったのですよ。


苦悩が絶えないのは私が悪いわけでも運がわるいでもないのです。煩悩具足の凡夫である私だからであったのです。人は皆、生きていれば苦悩からは逃れられません。苦悩を抱えながら外見は笑顔で幸せそうにしているだけで、内面には常に苦悩で満ち溢れているものです。


しかしながら、阿弥陀如来さまのご本願と遇わせていただくことで苦悩のまま二度と迷うことのないお浄土に生まれさせていただいて、先立っていかれた懐かしい人たちに遇わせていただけるのです。


お念仏を喜び生き抜かれた妙好人と知られる【源左】さん、【凡夫が仏にならせていただくというて、こがあなめずらしいおおごとがあろうかいのー。さてもさても、ようこそ。】と言っておられます。


親鸞聖人は、【真実とは如来なり。如来は真実なり】て仰っておられます。


阿弥陀如来さまという「まことの仏さま」に出遇えた喜び、この真実を知らずにいる私にまことの救いを知らせるために「縁」を結んでくださったご先祖さまは何とも有難いと思えませんか。

また私だけではなく、他の人々の痛みや苦しみに同感できる生き方となり、この流れが日本だけではなく世界の人々へ向かうことこそが、「まことの救い」の本質ではないかと私は思うのです。


そんなことを新年早々、SNSやネットニュースを通して感じたのでした。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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