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執筆者の写真超法寺の住職

パパじゃないもん

いやはや寒くてたまりません。

夜分遅くに失礼します。


今日お参りへ行って話した法話を抜粋して

ご紹介いたします。


浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は『浄土和讃』に、

【子の母をおもふがごとくにて 衆生仏(しゅじょうぶつ)を憶(おく)すれば 現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず】


と、子どもが親を慕うように、お念仏をすればいいと仰っしゃっています。

この和讃は、子どもがお母さんを慕うように、私が阿弥陀さまを深く思い念仏すると、今そこに阿弥陀さまは優しく、いつでも見守っていますということです。

私が憶うこと(おもうこと)は、阿弥陀さまに憶われていることなのですね。

しかしながら、それに気づくことはなかなか簡単ではありません。

私たちは、親の方から喚び続けられ、身心を通して受けとることで親を知ったのだから。


つまり、お念仏を(阿弥陀如来の願い)称える私になるということは、阿弥陀さまの願い(私を仏にしてしあわせにすること)を聞いて、その願いを私の願いとして生きていくということなのです。


南無阿弥陀仏は、「まかせよ、必ず救う。たよりとしてくれよ」という阿弥陀如来さまの願い=喚び声です。


以前、姪に「おい、伯父ちゃんのことをパパと呼んでみろ。そうしたら小遣いあげるぞ。」と言ったことがあります。


すると、姪はどうしたと思いますか?

子どもは素直ですね。

「無理。だって伯父ちゃんはパパじゃないもん。」だって。


これが大人ならどうするでしょうね。

きっと嘘でもパパと言いさえすればお小遣いをくれるなら行ってみようか。

になりはしませんか?

どうですか?笑


こういうことなんですよ。

お念仏を称えればいいんですよね、と質問される方。

親でもない者を親とは呼べるものではないのです。

私が私を必ず救う、必ずしあわせにするという願いが私に届いてこそ、私のこの愚痴をいう口に南無阿弥陀仏が声となって宿ってくださるようになるのです。


それを故人は身をかけて今、私たちに教えてくださっているのですよ。

知らず知らずのうちに私に阿弥陀さまは寄り添っていてくださるのですよ。

悲しい、辛い私に、私阿弥陀も悲しい、辛いよ、でも一緒に乗り越えていこう。そして我が名を称えて故人とまた遇える浄土に生まれて仏になってくれ。

これが阿弥陀如来さまの私たちへの願いであります。


このようなお取り次ぎをさせていただきました。

おやすみなさい。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。




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