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執筆者の写真超法寺の住職

この命いつまで繰り返すか

皆さま、こんにちは。

我が街入間市は今日も寒くなりました。

いつ雪が舞っても不思議でない冷え込みです。

ただ晴れ続きのため火事が多い気がします。

乾燥していますからね、静電気すら火事の要因となりそうです。どうぞお気をつけてくださいませ。


さて正月気分も終え通常モードになりました。

超法寺もまた新たに快適な空間のため動いています。今日は念願の手すりを付けました。

これで足の非自由な方にもお参りしやすくなるでしょうね。

まだまだあちこちやらねばなりませんが予算もあるため、優先順位の高いところからやっていきたいです。


お寺ではお経を読む、写経会をしてたしなむ。

仏法をお聞かせいただくことも大切にしています。

お経をいただくと、私たちの命は、この度の人生だけではなく、今まで幾度となく生き死にを繰り返してきました。ただその記憶がないためわからないのです。

[地獄]、[餓鬼]、[畜生]、[修羅]、【人間】、[天上](天国)

この六つの境界を巡り巡っているのですね。

実のこの六つの境界で、如来さまにお遇いすることができるチャンスは【人間】の時だけだそうです。


仏教をお開きくだされたお釈迦さまは説法の中で、こうお話しくださっています。

インドのガンジス河の川岸の砂つぶを命のつぶだとするならば、その砂を片手で掬い、その手の中に残っている砂つぶが人間に生まれることができる命の数だとおっしゃっています。

つまり、途方もなく貴重な命だと思う。

人間に生まれるということは大変稀だという。


お誕生日おめでとう!と、皆さまもお誕生日には言われると思うけど、このお釈迦さまの説法から紐解くと、[お誕生日有難たし]と言う方がしっくりとくる気がします。

新年早々ニュースでは小さな子どもが亡くなるという痛ましい記事を目にします。

これからの未来を担うべき子どもを事故で失わねばならないなんて、ただ悲しいとか寂しいとかではないものかと思う。

他人事ではありません。

子どもが何もなくいつもいてくれるなんて、実は稀なのかも知れません。当たり前ではないのでしょう。是非喜びたいものです。


亡き父が生前に書いて門信徒に配っていたプリントをお参りに行った際に見せていただきました。懐かしい父の筆跡。思わずウルウルきました。わざわざコピーしてくださいました。

一節をご紹介しますね。

何度も読み返してくださいね。

きっと何か自身の思いが変わるのではないでしょうか。


「生まれて喜ばれ、歳老いて邪魔にされ、

病気して嫌がられ、死んで忘れられる」


皆さまは大丈夫ですか。

特に法事を欠かすと、あっという間に忘れられる。間違いありません。最近では四十九日も初盆もやらない方が大多数になりつつあります。

お墓参りはするが、家には仏壇も無ければ阿弥陀さまもいらっしゃらず、何故かでんと黒塗りの位牌があり、位牌に手を合わせている始末。

つまり故人がどうなっていかれたかすら残された方々がわからずに生きているようです。


仏法も聞かないで、どうやって故人の今を知ることができるのだろうか。

縁が尽きれば今すぐでも命を終えていかねばならない私だというのに、どうやって安心して命を終えていくのだろうか。


私は父の書いている言葉を自らに当てはめ何度も読み返し自問自答している。

今年も阿弥陀如来を仰ぎながら生きていきたいと思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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