top of page
執筆者の写真超法寺の住職

こだわらない、そんな生き方してみたいな。

夜分遅くに失礼します。

ふと、思うことがありました。

私の寝る前のルーティーンを忘れていました。


このまま寝たらもうそのままかも知れないが良いか?

聞かせていただかねばならないものは聞かせていただいたか?

少しでも悔いなく生きれたか?


いかに毎日毎日、我に囚われ、執着して生きているかを思い知らされています。

ナンマンダブツ、ナンマンダブツとお称えさせていただいても、我が身の「欲」は私をがんじがらめであります。

それでも、今は亡き恩師、松林宗恵先生がお取り次ぎくだされた言葉、「おれがおれがの我(が)を捨てて、おかげおかげの(げ)下でくらせ」が懐かしいですね。先生は、ガ行の法則と教えてくださいました。


人間は「我」の心はなかなか捨てられるものではありません。我執はしぶといものであります。

しかしながら、親鸞聖人のご教示によって、『仏説無量寿経』をみれば、我執の強い愚かな私(人間)が南無阿弥陀仏によってのみ、生かされて救われていく道があります。


南無阿弥陀仏はこれを名号とも念仏とも名づけます。私たちは、この名号を聞くほかに信心はございません。


浄土真宗は、念仏正因の教えではございません。【信心正因】です。


この阿弥陀さまの他力の信心は、南無阿弥陀仏のお念仏の中に、私たち人間の我(が)の心を仏の無我の心に転じかえるだけのお力を成就されてあります。


阿弥陀さまのご信心を恵まれると、不思議ですが少しずつ少しずつ、お金や名誉や地位などに囚われないような生き方をするようになるのです。それこそが仏教的な生き方です。


お念仏を称えていても、日々の暮らしがお金や名誉、地位にばかり気持ちが向くのであれば、まだまだ自力心が根強くなっているのでしょうね。


昔聞いた話ですが、亡き森繁久弥さんが昭和42年(私が生まれた年)に京都で親鸞聖人讃仰会の講演にて、「わたしは五十歳になってハタと気づいたことがある。俳優として得たわたしの収入は、報酬ではないということである。日本全国からの浄財なのだ。墓場に帰るさいお金は必要としない。これからの日本をせおって立つ青少年の育成のために何かしたい」という話をされ、聴衆に深い感銘を与えたそうです。


森繁久彌さんの「自分の収入は報酬ではない。天下の浄財だ。だから社会のために有意義に使いたい」と言われる生き方は仏教的な生き方ですね。


布施という意味はそういうことなのです。

今は料金と言われることが多い。

定額だとか安い方がいい、そんな思いを持つきっかけを社会に植えつけてはいないだろうか。

安かろうは、安いだけのものにはなりはしないか。どうだろうか。

下手で、生意気で、偉そうで、そんな僧侶が高い高い布施を要求してきてはいなかっただろうか。

当たり前のようになっていなかっただろうか。


私は料金(布施)に見合ったものを皆さまに提供できているだろうか。


ただ読経をすればいいのではないですね。

浄土真宗のお経を読めば、【仏徳讃嘆】と【大悲伝普化】の徳用があります。


少し難しくなりますが、自分も他人もご先祖も子供も深い仏縁に結ばれて尊い利益を得るのです。

存覚上人は、「皆解脱を蒙る」の「解脱」の文を解釈して【近くは往生を指し遠くは成仏を指す】と言われます。


すべて私の側ではなく、阿弥陀さまのおはたらきの中にあればこそ自ずとそうなるのであります。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツの声を多くの方々にお伝えすることこそが、私たち浄土真宗の僧侶が大切にすることなんだと私は受け止めています。


あれしろ、これしろ、できないなら辞めろ。

そんな現実世界の中では頭を抱えるようではありますが、阿弥陀さまはそれをよくわかってくださいながら、私にあっているように動いてくださいます。

辞めろと言われてもやめられない。

やれと言われてもなかなかできません。

これが無常世界でございます。


阿弥陀さまにヨリカカル、そんな生き方をしたいと思いながら。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

閲覧数:10回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page