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執筆者の写真超法寺の住職

お立ち姿の仏さま

皆さま、こんばんは。

今日はめちゃくちゃ寒くなりました。

今年も残りわずかとなりました。

また「おめでとう」があちこちで聞かれます。

しかしながら、私たち浄土真宗は「365日大吉」を過ごさせていただきます。

ホームセンターへ行くと入り口に壁飾りが売られていて皆さまが買い求める姿を見ました。


正月の壁飾りは[魔除け]の意味合いがあると知っている方はどれくらいいるのでしょうか。

お正月だからと、あまり意味など考えずに買っている方が多いのかもしれませんね。

昔から日本でも[魔除け、神仏への祈願]は、普通に行われていました。

しかしながら浄土真宗はきちんと日頃からの仏法聴聞により[忌み事]を知らされています。


この辺りをおざなりにすればするほど親鸞聖人のみ教え、阿弥陀如来の他力本願がわからなくなります。[化土](けど)の道を歩むことになります。

浄土真宗のみ教えは簡単なようで実はとても難しい教えなのですね。「我」(が)がいつも邪魔をしてしまうものであります。


「我」(私)はいつも正しいと思う心、これがある限り本当の意味がわかることはないのではないだろうか。

親鸞聖人は、「化土往生少なからず、報土往生多からず」と、『正信偈』で明らかにされています。ただ何となく読むのではなく、意味をたずねていくことが求められるのではないでしょうか。


浄土真宗の生き方は、常にお念仏を称えながら生きていくものだとお聞かせいただいていますが、実際にそのような日暮らしをされている念仏者がどれほどいるだろうか。

皆さまはどうですか。


み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生き抜きます。「浄土真宗の生活信条」


ただ言っているだけで、心がけをしていないといけないように思います。

皆さまはお食事の時、「食前食後の言葉」を言われていますか?門徒だというのに、食前食後の言葉を知らないという人が多いのは実に寂しい気がします。これこそが「門徒もの知らず」ということではないでしょうか。

自分の都合にばかり合わせるから、「死ねば仏」などという間違った解釈が生まれるのでしょう。


仏法聴聞をするとは、私の側に仏さまを置くのではありません。私を仏さまの側に置くのが正しいのです。こちらに置いてしまうから、広大無辺と言われる仏さまがいつのまにか、ちっちゃな仏さまになってしまうのです。「有り難みが無くなること」


浄土真宗の阿弥陀如来像は立像です。(鎌倉時代以前のものは坐像)

このお立ち姿の仏さまは、【立撮即行】(りっさつそくぎょう)という姿であります。

摂めとって捨てないとはたらいていてくださる仏さま。私の中に飛び込んでくださった姿を取り出した姿であります。


阿弥陀さまのお救いは私たち人間には到底真似のできるものではありません。

私たちの日暮らしがどのようでありましても、誰から嫌われていましても、先生や会社の上司や同僚から見捨てられようとも全く関係ない。私たちの命は明日ありとでありますから、阿弥陀さまは大至急のお救いなのであります。


私たちがお念仏を称えるまで待っていたら間に合わない。

だから常に先手なのであります。

私に一切の条件をつけておられないのです。

だから「声の仏」となって先手ではたらいていてくださいます。

「心配ないから、必ずあなたを助けるから。辛くても必ず生きていけるあなたに阿弥陀がするからまかせてくれ。」


これが他力本願[先手必至]の仏さまなのです。

それでもまだ魔除けや家内安全祈願をしますか?

それでいいんですか。祈願するのは「助かっていない」人がするのです。先に言ったように浄土真宗の人は「365日大吉」を生きていきますから、おみくじに御守りに私をまかせていくことなど必要ないのです。


それは全部、南無阿弥陀仏の中に仕上げられてあるのですよ。


いのち毎日新しい。命毎日有り難い。


阿弥陀さまと二人三脚で生きていくのだから安心じゃないですか。

南無阿弥陀仏が阿弥陀さまが私の中に入り込んで宿っていてくださいますから安心です。

是非そう思えるあなたになってください。

それが一番ですよ。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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