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お念仏に遇えたなら

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

「これさえあれば、どんな不幸や災難に遭っても、迷うことなく生きていけます。これさえあれば、安心して死んでいけます」


私たちが生きる人生は、何から何まで思いどおりにはなりません。なぜなら、常に「欲」が付きまとうからに他なりません。

どんなに顔は笑顔で、言葉は優しくとも、身は煩悩具足の凡夫であります。

だから、もちろん私も外見はそう見えたとしても、喜ばれれば嬉しいし、仕事の邪魔をされたら気分は悪いのです。悲しいかな。


一瞬たりとも立ち止まることは許されません。常に刻刻と時間は過ぎていくのです。

ということは思いがけない不幸や災難にも出遭うし、もちろん嬉しいことも、幸せなこともあるのですが、そこには間違いなく「く」が残るのです。「苦」ですよ。


あれほど驚いた石川県能登大震災も、一週間が経つと被災地以外の私たちは何事も無かったように(失礼)、当たり前の生活を送り忙しい忙しいと、様々なものを求めて生きているお互いの姿があるのではないでしょうか。


確かなものとの出遇いなくば、安心して生きていくことはなかなかできるものではありません。

50歳の時、喉頭癌で声を失い、昭和50年に76歳でご往生されました高千穂徹乗和上は晩年、「我が人生を振り返って本当に、これでこそ人間に生まれた甲斐があったと言えるようなことがない」と書き、良寛さんの「不可思議の弥陀のちかいのなかりせば、なにをこの世のおもいでにせむ」のうたを引き、「如来の本願(お念仏)に遇うことができた。これこそ今生におけるただ一つの尊いめぐみであります」て記しておられます。」


「お念仏さえあれば、私はどんな不幸や災難に遭っても迷うことなく、我が身を見失うことなく生きていけます。死にたくはありません。けれど、その時が必ずやってきます。しかしお念仏があれば、私は安心してお浄土に参らせていただきます。」


これこそが、南無阿弥陀仏のお念仏に遇えた人であります。

これを知るために生きているのです。

だから、これを知らずに人生を終えたら勿体ないし、意味がないのです。

「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人間」、「天上」の迷いの命で、阿弥陀仏に出遇えることのできるのは今生きている「人間」世界しかないのです。

せっかく人間に生まれたというのに、せっかくご先祖さまが身をかけて浄土真宗の、ナンマンダブツに遇わせてくれたのに、それに背を向けて南無阿弥陀仏を一度も我が口に称えることなく人生を終えてしまったら、ご先祖さまはきっと悲しまれるのではないでしょうか。


仏を疑って生きられた人は、亡くなっても500年経たないとお浄土(報土)に生まれられないと、宗祖親鸞聖人はご和讃の中でお示しくださっています。どんなに阿弥陀仏から願われ、頼まれても、自我の殻に閉じこもって「そんなことがあるか、」と疑い、はねつけ、背を向けている人は、種を(仏になる)宿したまま迷い続けてゆくのです。


とんちの一休禅師は、「春ごとに 咲くや吉野の山桜、木を割りて見よ、花のありかを」と詠まれています。

これは、桜の木のどこを切ってみても、桜の花はありません。しかし、間違いなく桜の木には、桜の花を咲かせる性があると言う意味です。


だから、いわれを聞いて「そうでしたか。ナンマンダブツ」と、お念仏を申す他力の信心を得た人でなければ、浄土に生まれ仏になるという救われた人生を歩むことはできないのです。


ナンマンダブツを我が耳に聞こえるほどの声で称えて、「お前のことはもう助けてあるから心配するな」と、阿弥陀さまが仰ってくださっています。と受け止めてくださいね。

きっと安心できますから。


今夜もかなり冷えています。

被災地の皆さまもさぞお辛いことだと推察します。不自由ではありましょうが、阿弥陀様は常にご一緒くださいます。ナンマンダブツと声に出して見てください。


「老患のおさえた声の念仏がかすかにきこゆ消灯時間」


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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