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執筆者の写真超法寺の住職

ありのままの自分を受け入れる

皆さま、こんにちは。

連休二日目は朝からスッキリとした晴れになりました。我が街、入間では航空自衛隊入間基地の航空祭が5年ぶりに開催されます。今までならすぐ近くだったのでベランダから観えたんだけど、さすがに音すら聴こえませんね。

何か寂しいです。


さて今日はそんな晴れ間を見ながらゆっくりと過ごしています。

今日の言葉として、【いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり】『歎異抄』第九条


私たちは日頃からさまざまなことを思い巡らしながら生きていますよね。最近会った友人は、「還暦を前にして、死について考えるようになった。終活が流行っている中ではあるけど、どうやって死を迎えるかだなぁ。」と言う。

「歳のせいかなぁ。最近は定期検診も不安なんだよ。」とも言う。


きっと皆さまも同じような思いをお持ちでしょう。しかしながら、自分は死んだらどうなるのか、どこへ行くのかを真剣に考えてはいないでしょうか。おぼろげに「天国に行く」とか、「虹の橋を渡って」などと考えではいないでしょうか。

浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、『正信偈』に「報土往生多からず、仮土往生少なからず」と、おっしゃっておられます。


そんな簡単に良いところへは行けないのです。

ニュースを見てもわかるように、私たち人間というのはいささかも世のため他人のために生きれないものだと思うのです。

もちろん全ての人がそうだとは言いませんが、常に自分は正しい、他人が悪いという概念の中に生きてはいないでしょうか。

私自身はお恥ずかしながら人様に誇れるような生き方はほぼほぼないと自覚しています。


それがよくわかるのは、私のドライブレコーダーの録音されたものを見た時に愕然としました。[皆さま、たまには見てみたらよくわかりますぜ?]

まるで見ていられない。お墓の中まで持っていきたくなるそんな内容が録音されていました。


叶うというは、口偏にプラスとマイナス。

愚痴を言わなくなると叶うのだそうです。

愚痴ばかり、他人の悪口ばかり言っているとそうならないというのですね。

皆さまはいかがでしょうか。


先の『歎異抄』の意味ですが、【お浄土に生まれたいという心は起こらず、病気でもすれば、このまま死なねばならないんじゃないだろうかと不安に思ってしまうのも、すべては私の煩悩のなせることで、そんな生き方の私[凡夫]を救うために願いを起こされたのが阿弥陀如来のご本願でありますから、私たちは阿弥陀如来のご本願に耳を傾けて、阿弥陀如来の慈悲のはたらきに身をまかせられれば浄土への往生は間違いない】と、語っているのです。


死を考えるようになれたことは自分がいつまでもこのままにはないという自覚でもあります。

不安を抱えながらも、阿弥陀如来のご本願によって私が凡夫[ぼんぶ]であると知らされ、

そういう私だからこそ阿弥陀如来は必ず救う、まかせよと、喚び続けていることに気づいていくことにより本当の意味での安堵の世界に気付かされるのではないでしょうか。

そんなことを改めて考えさせられた今日であります。

皆さま、どうぞ良い休日をお過ごしください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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