「闇をとおして 光は いよいよ光る」
(梅原真隆師)
浄土真宗において、「他力」というのは
【弥陀の浄土への往生においては、本願のはたらきを根拠とする以外に道はない】
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【自力では往生できない】ことを明らかにするためであります。
ですから親鸞聖人は『正信偈』に、「報土往生多からず、化土往生少なからず」と、仰っているのでしょう。
阿弥陀如来から何を賜るかと言えば、「信心
」しかない。
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ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし
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浄土真宗の喜び
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浄土への往生あるのみです。
浄土真宗は、「生きる」ということを、【生死】(しょうじ)の問題として捉えてきました。「生死の闇の深さに気づかしめる教え」
とも言うのでしょう。
生死の迷いの闇にあった私が、往生浄土という方向を見出して、その道をひたすら歩もうと一歩を踏み出すことが定まるということです。
それは往く先に地獄が待ち構えているとしても、その道を進んでいこうとする決断がその第一歩を可能にするのです。
闇の中にいる者は、自分が闇に包まれていることに気づくことはありません。また、光だけに包まれている者は、光の存在に気づくことができません。
苦悩の闇の深さが、救いの光の輝きを際立たせるのでしょう。
「生」ばかり語られるならば、私たちの闇の深さに苦悩する人間という生き物を見誤ることになるのではないかと思うのです。
改めて、浄土真宗のみ教えとは何かを訪ねたい。浄土真宗は自分だけの喜びにとどまらない。自分だけが喜べばいいというものであるならば、浄土真宗の必要性はないでしょう。
それは南無阿弥陀仏の一声に、法蔵菩薩の願心からその一声にまでつながってきた【本願】の歴史が成就しています。
つながっていなければ、そのお念仏は出てこない。
その声に【ただ念仏すべし】という教えを聞き頷けるところに、お念仏の教えが生きてはたらくのです。そのようにして、喜び喜ばれる中に、自分自身もその一人として大きな喜びとなっていくのですね。
これこそが大乗仏教の精神が現れています。
御同朋(おんどうぼう)、御同行(おんどうぎょう)の言葉があるのは共に喜ぶ世界だからなのです。自分勝手に喜ぶのは他力とは言えません。阿弥陀如来を仰げば、必然的に共に喜ぶ世界が広まっていくのですね。
先程、羽田空港で起きたJAL機と海上保安庁の飛行機が衝突し炎上、海上保安庁の乗組員5名が亡くなられたが、実はJAL機に載せられていたペット2件が下ろされずにいたことが報道されました。ペットも命を有します。
人間だけが無事ならいい訳ではなく、ペットの命も被害に遭ったと同じく報道されて欲しい。
私は部類の柴犬大好き住職です。
千葉にいた時は毎年、湯布院温泉へ慰安旅行に柴犬と行っていました。もちろん飛行機で。
ペットは、ストレスを考慮して一番最後に載せ、到着したら一番最初に降ろしてくれるのです。それなのに人間だけ全員救出して、ペットはそのまま置かれ、焼死させられたのです。
言葉を持たないペットは、どれほど怖かったか、どれほど熱かったか、苦しかったか。
想像するだけでもおかしくなりそうです。
また、飼い主さんは家族同然のペットが焼死したことで、どれほど悲しみ、苦しみ、嘆いたことでしょうか。私なら半狂乱になります。
愛する我が子のようなペットを失い、飼い主さん家族は今後どうやってこの苦痛を乗り越えて行くのでしょいか。
私にはナンマンダブツがあります。
うちの子たちも、毎日ナンマンダブツの声に包まれていますから、いずれ遇えるのでしょうが、それでも喪失感はなかなか厳しいでしょう。
日本の法律は古いから、ペットは「物」扱いで、器物破損にしかならないのです。
つまり命として扱われていないのです。
金の亡者になっていないで、今や人間より多い犬や猫の命をかけがえのないものとして扱う法律を制定してくれませんか?
ペットですから、人間が常に介在します。
家族同然のペットを奪われた家族のペットロス症候群はどのように補償してくださるのか。
これを仏教では【地獄の沙汰】というのです。
私は想像するだけでも眠れなくなります。
ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。
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