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執筆者の写真超法寺の住職

私の「領解」

皆さま、おはようございます。

朝から春の嵐のごとく強い風が吹いています。しかしながら晴れ間があるので助かります。

洗濯物は中干しがいいようです。


さて今、我が浄土真宗本願寺派では親鸞聖人御生誕850年、立教開宗800年慶讃法要の最中、「新しい領解文」についての異安心(いあんじん)論争が巻き起こっております。

慣れ親しんだ今までの「領解文」をなぜ今変えたのか、なぜ今までのではいけないのかは色々あるとは思いますが、私の個人的な意見ですが、きっと少しでも若い世代に仏法に出遇っていただきたいという願いがあったので迎合したのが発端ではなかったかと思うのです。


今まで親鸞聖人も蓮如上人も迎合してはおられませんでした。

それが先の親鸞聖人750回忌大遠忌法要辺りから迎合姿勢があったように思います。

「ご一緒にお念仏申しましょう」は、私はずっと違和感でした。


言わされるお念仏って何だろうって。

浄土真宗のお念仏はそういうものではなかったはずです。

そこで改めて浄土真宗の【領解】とは何かをご紹介したいと思う。


私の領解(りょうげ)


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがとうございます。

あなたの(阿弥陀如来)仰せのままに私もお浄土に参らせていただきます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

ありがとうございます。

あなたの仰せのままに私も仏にならせていただきます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

ありがとうございます。

この上の称名(しょうみょう)は、ご恩報謝、分を尽くしてまいります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



あなたも私も浄土に生まれて往きます。

あなたも私も仏さまになるのです。

それはなぜか、それは、あなたにも私にも、おや(母•仏)の涙が注がれているからです。


「罪悪の 凡夫わたしを そのままに 抱いて悲しむ おや(母•仏)がおる」


「おやの涙の注がれていない子どもは一人もいない。仏さまの涙の注がれていない人間は一人もいない」


おや(母•仏)とはそういうものです。

だから、おやは呼ばれたいのです。

「お母さん」「お母ちゃん」「母ちゃん」「ママ」と。

「南無阿弥陀仏」「ナンマンダブツ」「なまんだ〜ぶ」と。


子どもがその親心を知ろうと知るまいと、子どもには親の涙が注がれています。

凡夫、あなたや私が、それを知ろうと知るまいと、凡夫の上には、仏さまの涙が注がれているのです。

その大悲の涙で、人間はすべて浄土に救われていくのです。


それを知らずに、「死んでどこへ行くのか」「死んだらどうなるのか」何も知らずに何もわからずに不安と恐怖の中で、人生を終える人もたくさんおられますよね。


超法寺が無くてはならない意味は、そんな人たちがなるべく早くそのことに目覚めて、それを受け入れて、阿弥陀如来の仰せのままに私も浄土に生まれて仏になりますと、南無阿弥陀仏を申させて、安心して今を生きてくださるようになっていただきたいからなのです。

微力ではありましょうが、大丈夫です。

阿弥陀如来の【ご本願】のおはたらきは超ぜつ法りきでありますから。


ここさえ外さなければ、何も問題ありません。

ならん私をならしめるはたらきが阿弥陀如来のお心であります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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