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執筆者の写真超法寺の住職

知識と智慧

皆さま、おはようございます。

昨夜は早く休ませていただきましたので少し疲れも取れたようですが腰の痛みで起きました。どうもようないようですね。

痛み止めを飲んでみましょうか。コルセットも付けてみました。

「老い」と「病」はずっとです。それでも生きていくのです。

生きてくれよのおはたらきがあればこそです。


さて、知識とは頭で知ることです。

私たちは、無常・縁起・無我というこの世の道理(法則)は、頭で理解しています。

また、智慧とは身と心で知ることを言います。

頭でいくら理解しても私たちの身と心は無常には心は動いてくれません。

ですから苦悩がずっと離れず常に苦悩するのです。

これを「凡夫」とか「煩悩具足の凡夫」というのです。


皆さまは、今日は自分で起きるスイッチを押されましたか?

心臓に動けと指令を送りましたか?

違いますよね。

他によって生かされて、自分で自分を動かしていないのに今日も私を生かそうとするはたらきによって生きることを許されているのです。生きたいとも思わない、嬉しくもないのかも知れない私を一生懸命生かそうとはたらき続けています。

その意味は生きていくことで知れます。生きてみましょう。

自分の力で生きているなんて思わないでくださいね。

生きてくれのはたらきが私を生かしめているのだから。

縁起の本来の意味も知らず、無常の真っ只中に生きていることも忘れ、老病死から離れられず思い通りに生きられないこの世を生きているのに、いつまでもこの世にいたいと思っている私たちには真実なんかわからない。

わからないこの私をそのまま抱き止めて、心配しないで、阿弥陀に任せて生きてくれのはたらきがあるのです。

身をまかせてみましょう。


他を傷つけ、自身も傷つけ、苦悩の人生を生き続ける私、これが人間の有り様であります。例外なくです。

このような私たちがいるからこそ、真実の法に目覚めた仏になるようにとススメて仏になる道を説いておられるのです。

【今現在説法】(こんげんざいせっぽう)であります。

お経を説法だと思って聞いてみましょう。ちょっといつもの仏事(法事)と違ってくるのではないでしょうか。


さまざまな生き方があるように仏になる道も二つあります。

一つにはとても厳しい修行と実践を伴う道、聖道門(しょうどうもん)と言われる自力の道です。これは誰でも成し遂げられるものではありません。皆さまのご存知の「千日回峰行」と呼ばれる仏道です。あまりに厳しいため今では天台宗に住職になるためには「百日回峰行」をしていると聞きました。百日でもなかなか容易ではありません。比叡山での修行で一番最初にする行は、横になってはならないという修行です。堂内に仏様が安置されてあり、その周りに一本の縄が張り巡らされているそうです。

修行僧はナンマンダブツをとなえながら、堂内をグルグルと歩くのです。堂内を離れられるのはトイレと食事だけで横になれないのですから寝る時はどうするのか?

そう、縄に寄りかかって寝る。しかし縄ですから体を支えられませんからドタンと倒れてしまいます。痛みで目が覚めます。そうしてまた堂内を歩きながらお念仏を称えるのです。これをどうだけやるのか?90日間だそうです。

これは一番最初にする修行です。やれますか?自力で仏に成るためには容易ではないのです。ま、自分の力を信じているならやってみなさい。


それに対して、私たちのように、仕事を持ち、家族を持ち、趣味も持つ者には山に籠って修行などできません。

できない私はどうやって仏に成るのでしょうか。とても無理じゃないですか。

死ぬまでは煩悩から離れられないのですよ。

どうする?

こうする。

他力に任せていくのです。他力とは阿弥陀さまのことであります。

阿弥陀さまの願いをいただいて救っていただくのです。

どうやっていただくのかといえば、南無阿弥陀仏を口に称えていただくのです。

こうやってであれば誰でも容易にお救いに遇うことができます。


そこで疑問を持たれたあなたは素晴らしい。

そう、自力の修行でもお念仏を称えると言いました。

実は南無阿弥陀仏には自力と他力があるのです。

他力は阿弥陀に任せる道、自力は私にために善を振り向けていくのです。

詳しくはお手次のお寺さんにお聞きください。

簡単にいえば、「自証教」(じしょうきょう)と言い、どこまでも自分に力を信じ、自分は悟る力があるという信念があるという生き方です。これは誰にでもございません。


他力は「救済教」(きゅうさいきょう)と言われます。

私がではなく阿弥陀さまがひとり動いてくださるのです。

その動きに身をまかせていくのです。まるで赤ちゃんが母親の身に身を委ねているような感じにです。

ですから、阿弥陀さまを「親のように」と言われるのでしょう。

【まかせよ、救う】

それを声にして届けていてくださるのが南無阿弥陀仏なのです。

仏さまの仰せのまま私もお浄土に生まれて仏に成るのです。


どうですか?皆さまのその口は南無阿弥陀仏と声となってくださいますか?

まだの人や仏壇やお墓でしかお念仏を称えることができない人はまだ自力心が残っていますよ。それは他力とは言いません。

他力はいつ何時も、お念仏を称えながら今を生きていくことです。

「聞く宗教」浄土真宗です。

聞いてみましょう。皆さまのご先祖の声を、願いを。

ナンマンダブツ、南無阿弥陀仏

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