『選択本願念仏集』で法然聖人は、各章ごとに善導大師や善導大師の師である道綽禅師のことばを引用してから自らの見解を述べています。
法然聖人においては、道綽禅師と善導大師の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いています。
著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教の中から自らの権限に合うものを選び取り、行じていくことが本義であることを説かれました。
加えて仏教を専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定しています。
また称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いています。
末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆくことでしか救われる道は望めない。
その根拠として、『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願(四十八願の中でも、特に第十八願)を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃嘆しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとしています。
もっとも法然聖人が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難でありますが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除•否定してはいなかった。
《三心の信心》
法然聖人の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。
これは『仏説観無量寿経』に説かれていて、『選択集』•『黒谷上人語灯録』にも見られる。
【三心】とは、
《至誠心》[しじょうしん]⭕️偽りのない心
《深心》[じんしん]⭕️深く信ずる心
《廻向発願心》[えこうほつがんしん]
⭕️願往生心
【至誠心】
真実の心のこと。真実とは、心空くして外見をとりつくろう心のないこと。
【深心】
疑いなく深く信じること。
何を信じるかといえば、諸々の煩悩に取り囲まれ、たくさんの罪を作って、これという善根のない凡夫であっても、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、その名号(南無阿弥陀仏)を称えて、思い立ってから臨終の時に至るまで休みなく、あるいは十声一声しか称えることができなかったとしても、多く称えても少なくしか称えることが出来なかったとしても、弥陀の名号を称える人は必ず往生するも信じて、たとえ一度しか称えられなかったとしても、その往生を疑わない心をいう。
【廻向発願心】
自分が修めた行いをひたすら極楽浄土に振り向けて往生したいと願う心のこと。
◉【三心】は、念仏者の心得たるべき根幹をなすもので、大切なものとされています。
✴️法然聖人の教えは、三心の信心にもある通り、我々人間は【凡夫】であるということを認識して、その上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、称名念仏の行に生涯打ち込むべきとされています。
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