亡き人を仏と拝み 拝まれる仏になると
今を生きる
息絶えて安らぐ兄や秋の空
名古屋市 鈴木修二(中日新聞)
息絶えて、お兄さんが亡くなられたのですね。
何て安らかな顔、そのお兄さんの顔を見て、作者も救われたのでしょう。
多分、お二人とも高齢者だと思います。
お兄さんは、大変な痛みや苦しみ悩みを抱えておられたのでしょうか。
いつ会っても、苦し気な、痛々しい顔をしておられたのでしょう。そのお兄さんが息絶えてやっと安らかなお兄さんの顔になった。
死は安らぎです。死は涅槃です。
お釈迦さまの説法は「人生は苦なり」と始まりました。人間は誰も高齢の身となれば、この言葉が「まこと、まこと」と深く思われることでしょう。
この身についた苦しみ痛み、ここが悪いそこが悪い、ここが痛い、そこが痛い、老いと病は、相互に関わりなかまら進んでいきます。
老•病•死、誰も避けることはできません。
亡き父もあっという間に弱り死んでいきました。実にあっけなくでありました。
私もそう遠くないうちに同じようにそうなるのでしょう。
それまでに私が為すべき役割を果たしておかねばなりません。
そんなに長い猶予は無いと感じます。
身の回りでも、えっ?あの人が?
と驚くことが実は多かったりしませんか?
老いて優しくなる人は稀。
頑固で他人には厳しい言葉を投げかける人は多い。自分が他人からそれをされたら悲しいくせにです。
このように人間は自分が一番かわいい。
↓
これを仏教では【煩悩具足】と言います。
いいですか?
皆、死んでいくのです。
自分が死んで泣いてくれる人が何人いるでしょうね。(身内以外で)
老いても他人に厳しかったり、文句を言ったり、怖い顔をしたり、すれ違ったのに知らんぷりしたり•••そんな言動をしていたら、きっと寂しいお葬式になりますよ。
子どもや孫すら泣いてくれない、そんな悲しい人生の最後を迎えたら、きっとすぐに忘れられてしまうんじゃないかも。
死ぬことのありて 安堵や老いの冬
山口市 藤野リツ
どんなときも決して私を見捨てない阿弥陀如来と共に生きていくのです。
それを知らないで安らかな人生などありはしません。南無阿弥陀仏を聞くことなくこの人生を終えてしまったら、一体何のために生まれてきたのか、意味がなくなってしまいます。
あなたのその老いた姿を、病んでいる姿を、死にいく姿を是非、よく子どもさんやお孫さんに見せてあげましょう。
皆、いずれこうなることを。
決してあなたを見捨てない、という阿弥陀如来の大慈悲心は南無阿弥陀仏となって、もう既に届けられてあります。
無始流転の苦を捨てて、無上涅槃を期する。
やがて終わる人生の終わりを縁として、浄土に生まれて仏に成る。
その日を静かに待ちながら、「今」を大切に生きていきましょう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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