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執筆者の写真超法寺の住職

五種の不思議

皆さま、こんばんは。

今日もなかなかハードな一日でしたね。

明日もかなり暑くなるそうなので体調管理には十分お気をつけください。


今日の写経会は二名の参加をいただきました。

参加者の皆さんから、どうすれば超法寺へお参りくださる方が増えるかなぁと残念がっていました。

このお二方は、九州のご出身で浄土真宗の仏教深い場所です。やはり土徳がある場所に生まれ育ってこられた方はお寺が憩いの場であり、そして何よりやすらぎの場所なのでしょうね。


入間市には現在、浄土真宗本願寺派のお寺がありませんから、お寺のイメージはきっとご供養とか護摩、祈祷なのかも知れませんから普段はお寺には行かないものという認識があるのでしょうか。

しかしながら浄土真宗でのお寺とは、【聞法道場】です。阿弥陀如来のご本願の中に身を置くことの喜びがお寺の本堂へ参ることなのです。

それをまだ知らない、わからない、興味がない•••••そんなことでお参りくださらないのかもしれないけど、今は少しずつイベントを開催しながら、入間市の人たちが一体何に興味があるのかをリサーチすることが大切ではないかと思う。


他の布教所とは明らかに違うのは入間市は大都会にある布教所ではないということです。

8つある布教所の中で一番田舎にあるのが、いるま布教所ですから。

比較などしても全く意味がないと私は常々考えています。田舎には田舎の良さがきっとあると思います。

【土徳】(どとく)と言いましたが、この地に染み込んだもの、浄土真宗でいえば阿弥陀如来の不可思議のはたらきです。

南無阿弥陀仏のはたらきは私の今にどのように影響するのでしょうね。


宗祖親鸞聖人は、ご和讃『高僧和讃』に、

「五つの不思議を説く中に、仏法不思議にしくぞなき、仏法不思議ということは、弥陀の弘誓に名づけたり」〈曇鸞讃〉


と、おっしゃっておられます。

これは、「世の中に不思議なことが五つある。中でも釈尊(お釈迦さま)は、【仏法不思議】以上の不思議はないと説かれています。

仏法不思議とは、弥陀の救いの不思議を言われたものである、と宗祖親鸞聖人はおっしゃっておられます。


仏になる縁なき私たちを救う、十方遍く照らす阿弥陀仏の不思議は、光明であり、本願力をいうのです。


◎仏教は、お釈迦さまが35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまでの45年間説かれた教えです。

その教えを後にお弟子たちが書き残したのが【お経】であり、7.000冊余りもある。


ところが、親鸞聖人は、お釈迦さまの説かれたことはただ一つだと言われます。

 

【如来世に興出したもう所以は、唯弥陀の本願海を説かんとなり】(「正信偈」)


お釈迦さまがこの世にお生まれになった目的は、唯一つ、阿弥陀仏の本願を説かれるためであると言われています。


では、【本願】とは何でしょうか。

阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏のなされたお約束のことです。

どんなお約束かというと、【すべての人を必ず、決して崩れることのない絶対のしあわせの身にしてみせるというお約束です。】


「絶対のしあわせ」とは、「相対のしあわせ」に対する言葉です。

私たちが普段感じる幸せは、すべて相対の幸せであり、続かないという特徴があります。


相対の幸福しか知らない私たちは、絶対の幸福と言われても想像すらできません。


【絶対の幸福のことを、「不可称、不可説、不可思議の功徳」とも言われますが、言うことも、説くことも、想像することもできない、心も言葉も及ばない世界なのです。


つまりは、心も言葉も及ばない世界を、何とか私たちに伝えようとされたからこそ、7.000冊余りものお経となったのですね。


でも心配はありません。

わからない私たちのために阿弥陀如来は、すべてを南無阿弥陀仏の六字に凝縮してくださり、それを声のはたらきとなって、私たちに聞きやすい、受け取りやすい、称えやすい形で現れてくださいます。

また、これを素直に受け取るためには日頃よりの【仏法聴聞】だとおススメくださいます。


どうですか、難しいですか。

私たちが到底理解することなどできないものです。でも阿弥陀如来は、これ以上になく簡単に仕上げていてくださるのに、人間の不思議はどんな子どもでも受け取ることができるものを、横っちょに置いて、わざわざ超難関な7.000冊余りの経典を学ぼうとするのだから。

きっと阿弥陀如来はご苦労でしょうね。


阿弥陀如来のご本願は、必ず私を救うぞ、お浄土に生まれさせるぞ、二度と輪廻転生しないさとりの仏にするぞ!という願いで出来上がっています。だからこれ以上の安心はないのに、それがわからない、南無阿弥陀仏が声にならないのは、他ならぬ【煩悩具足の凡夫】だからであります。


助からない私と、だからこそ必ず救うぞの阿弥陀如来さまとのせめぎ合いですよ。


これは科学でも解明されることはないでしょうね。すべてを超越した不可思議の世界です。

そんなもん信じられないよ、という声が聞こえてきそうですね。

信じなきゃ救わん、そんなセコイ仏さまではありません。


阿弥陀如来は、私の親になったぞ!

だから親にまかせてくれよ、と願い続けてくださいます。


そこまでもしないと、頑固な私には阿弥陀如来のご本願が素直に受け取れない。

それを重々承知でご本願をお誓いくださってあるのです。

だから、不思議も不思議、不可思議の世界です。


もう一度、ご和讃を読んでみてください。

【不可称、不可説、不可思議の〜】

素晴らしい世界ですね。

これでも大して驚けないなら、私が凡夫である証拠であります。

大丈夫だぁ、心配ないぞ。


そんなことを真面目に共有するお寺が浄土真宗のお寺です。超法寺もそうです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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